「  」


懐かしい声だ。あの日、私の目の前で『  』はずの、


―――お父さん、


呼びかけに応えようとして口を開いても、声が出ない。気付いてほしくて伸ばした腕は、随分短くなってしまっていて、驚いて両の手のひらを目の前に翳す。
売り子の仕事で荒れてかさついた指はそこにはなく、代わりに幼い子供の指があって、そこでようやく私は気付く。


これは、夢だ。



「  」



『私』に気付いたお父さんが、ゆっくりかがんで視線を合わせてくれる。
在りし日の、父の姿。少し日に焼けた肌、頭を撫でてくれる傷だらけの手、まとう空気、すべてが記憶のとおり。
懐かしくて、悲しくなった私の気持ちに染まった幼い『私』が泣き出すと、「どうした? ひとりで、寂しかったのかい?」父は困ったように首をかしげる。それから、今日はとうさんのお友達を紹介しよう、とにっこりと笑顔を見せた。


「おとうさんの友達だけど、きっとの友達にもなってくれるよ。少し変わった人たちだけれど、とても心の優しい、気のいい奴らなんだ」


ほら、と促されて目を向けたそこに、銀色の長い髪を揺らす真紅の瞳の背の高い人、そして、純白と金色の―――……大きな、竜?
ああそうだよ、彼らはとうさんのお友達なんだ、嬉しそうに笑う父の声がわずかに遠ざかった。
待って、お願い、遠くに消えていきそうな父の声に追い縋る私と『私』の耳に最後に届いたのは、


「 銀色の髪の彼の名前はデューク―――、そして真っ白と金色の彼の名前は――― 」







エルシフルと言うんだ―――











004:円環の記憶











今さっき見ていたはずの夢の余韻は、それなりに容赦のない拳骨でかき消された。
痛い。かなり痛い。ダメージを受けた頭をさすりながら、ふとさっきまでいた場所とは少しだけ様相が違うことに気付く。
隣ではエステルがラピードの体を枕にして昏々と眠り続け、正面には右手をグーにしたまま、すっと目を細めて私を睨むユーリ。その背後で焚き火がパチパチと火花を散らしている。
近くには何だか正体のわからない機械…筐体、だろうか。とりあえず、あの変な気持ち悪さを感じた場所ではないことは確かだった。
そして薄暗い空を見上げれば、森の木々の隙間を縫って月の光が弱弱しく降り注いでいて。


「…………もしかして、私長いこと気絶してた?」
「おう、そういうこった。………………で、何か言うことは?」


笑顔のユーリだが、その目はちっとも笑っていない。


「……ごめんなさい」


自分の体質で術式を受ければ、たとえそれが治癒術だろうと体に変調を来す。
それをわかっていながら、何とかなるだろうと軽い気持ちでエステルの治癒術を受けた、その結果が長時間の昏倒、そしてそれによる足止め。浅はかだったと深く頭を下げると、ユーリは浅く息をつき、


「エステルが起きたら覚悟しろよ、泣かれるぞ」


もう一度、今度は軽くコツンとおでこに拳骨。ふ、と笑ったユーリはけれどすぐに顔を引き締め、小さく囁く。


「確認だけさせてくれ。さっき倒れたのは……エアル酔い、じゃねえよな」


真剣な色の目に向かって、一瞬だけ迷ってから……私はこくりと頷いてみせた。
正直なところ、感覚的なものでしか判断は出来ないけれど、


「多分、違う。お医者さんやフレンが使う治癒術を受けたときの感覚とは、違った、と思う」
「……だろうな」


多少の立ちくらみや、胸焼けに近い嘔吐感ぐらいなのだ、本来のエアル酔いなんていうのは。体質的に過敏なので若干症状は重くなるけれど、それだって十分も大人しくしていればなんともなくなる程度のもの。
でも、さっきのあれは。
あの時私の体と意識を襲ったものは。


全身を気持ち悪く脈動する、何か得体の知れないものが『膨張』する感覚。腹の底からせり上がる自分の体に対する違和感と、色を失うほど無理やりに高揚させられた強烈な―――『危機感』、だった。


酔って体力を消耗するのならわかるが、あの時体に起きたのは、言葉にし辛いけれど……言うなれば、『暴走』という単語がふさわしい。何となく、だけれど、その膨らみすぎた何かに対応出来なかった身体が無理やりにスイッチを切った、というのが、私が昏倒した原因なんだろう、と思う。
それに、強制的に意識の変化を引き起こすエアル酔いなんて聞いたこともないし、この身に起きたのもこれが初めてのことだ。


―――以前読んだことのある本の知識によれば、高濃度のエアルに近づけば強烈な酩酊感を感じたり、意識を失うような状態にもなるらしいけれど、その一方でそこまで濃度が高まったエアルは光の粒子として可視化されるともあった。
あの時は、倒れるまでの一瞬の間だけではあるけど、そんな光の粒子なんて見てない。
もしもそんな粒子が見られるとしても、それは精々術式を展開するときに、ごくごく一瞬、それもちらりと瞬くだけの量が出現するかしないか、それくらいだ。
エステルの術式をちゃんと目にしたわけではないが、慌ててとめに入ろうとしたユーリが目撃しているだろうし、もしそこに違和感を感じたのなら、その話題が出ないわけがない。とするならば、まず間違いなく普通の術式を使われた筈。……魔術に疎いユーリがそれを十割見分けられるかは、ともかく。でも何も言わないという事は、多分フレンが使ったことのある初級術式と酷似していたとか、そういうことなんじゃないか、と思う。
きっと同じような事を推測したのだろう。ユーリがわずかに複雑そうな表情をしてから、すぐにかぶりを振った。


エステル自身が引き起こしたくて起こしたものではないのは、確かだ。
それだけは、この短い間の同行でもわかる。エステルに対して警戒する必要は、全くないだろう。あの時、彼女には悪意の欠片なんて全くなくて、それどころか、心からの心配されたのを感じたのは本当だから。
それは、ユーリと私の共通の見解だと思う。
とすれば、私の体質とエステルの治癒術が特に相性悪いのかもしれない。……あくまでも予想でしかないけれど。


「……まぁ、何にしろちゃんと言っとけよ? 今回のお仕置きだ。きっちり泣かれろそして叱られろ」
「心得てます……」


結局は、私自身がちゃんとエステルに説明して、怪我をするようなことが起きても自分自身で手当てをする、と確約すればいい。最終的に私たちがたどり着いた答えはそれだった。
ニヤニヤと意地の悪い笑顔で私を見るユーリに向かって、私は力なく肩を落とした。






「……あのさ、、さん、だっけ。……歩き辛くないの?」


クオイの森をようやく出たところで、ばっちり決めた髪形の男の子が我慢ならなくなった様子で私を見上げた。
彼の名はカロルという。エッグベアなる魔物を探しに単身クオイの森に挑んだという、パッと見、テッドより二つかそこら年上風の少年と一緒に、私たちはハルルに続く道へ出てきた。
カロルの疑問に私は苦笑いを浮かべて、自由な左手で頬を掻く。右腕には必死の形相でしがみつくエステルがいて、正直言えば歩き辛い。が、こうなった原因は私の無茶なのでとりあえずハルルにつくまでは甘んじてこのままでいようと思っている。
尚、ユーリはというと何故かこちらに視線を寄越そうともせず先頭を歩いている。
エステルが目を覚まし、勢いのままに押し倒されて揉みくちゃにされた頃からずーっと、耳が微妙に赤くなっているのは気のせいだろうか。……あの時のエステルの勢いは本当凄かった。挙句腕を回されたところが個人的に弱いところだったもので、こそばゆさのあまりに変な声まで出してしまった始末。
あまりの暴れよう(?)に、それまで枕代わりを担っていたラピードがうんざりしたように起き上がって、そこで我に返ったらしいエステルは離れてくれたのだが……その後、物凄く居た堪れなさそうなユーリが用意してくれた軽食を平らげたらこの状態になった。
早くハルルに着かないかな……、と心の中でため息をついて、進行方向に目を向ける。森を出てそろそろ一時間経とうとしている。さっきカロルくんが説明してくれた通りの位置ならもうそろそろハルルの大木が見えてくるはず、


「お、あそこがハルルか?」


先頭を行くユーリが、久しぶりに私たちを振り返りながら前方を指差した。見る限り耳の赤みは引いたようだ。ユーリの声に応えるように、カロルが笑顔で頷く。瞳を輝かせたエステルが、パッと私の右腕から離れて、ここでようやくユーリの言うお仕置きが終わったのだとこっそり息をついた。
傍らを歩くラピードがくふぅ、と唸って、走り出す。私もその青い毛並みを追ってユーリの傍に駆け寄った……ら、何故かそれとなくユーリに顔をそらされる羽目になった。何なの。


「悪い、もちっと待ってくれ、何とか戻すから」
「何を戻すの」
「色々あんだよ男には」


難しいお年頃なのだろうか。首をかしげてユーリを伺ってみるけれど、珍しく眉間に皺を寄せた幼馴染はやっぱり目線でそっぽを向いたままだった。
仕方ないので目前に迫ってきたハルルの大木を見上げて……それに気付く。


「……ユーリ」
「なん…………?」


ぶっきらぼうな声色が、すぅ、と真剣みを帯びた。私の硬い声に何かを感じ取ってくれたようで、それをあり難く思いながらも、緊張したまま、続ける。



「ハルルに……結界が、ない」



抜けるような青い空。
風に揺れる大木の枝葉。

そこにあるはずの白金の円環は―――影も形も存在していなかった。






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