「……その口、太い縫い針で縫いとめて差し上げましょうか」
握り締めた拳をぶるぶる震わせながら、は無表情をかなぐり捨てた。据わった目に怒りを灯して、きつい眼差しで令嬢を見つめる。その怒りに一瞬だけ令嬢が息を呑むが、そんな対応を刹那取ってしまったことすら恥じたように、小ばかにしたような視線をにぶつけた。
「は―――、このわたくしに対して何を無礼なことを仰るのかしら。これだから」
下民は、と続くはずだった令嬢の言葉にかぶせる様に、は口を開く。
「私のことを、頭の悪い、品のない平民だと仰られるのは結構です。確かに賢い性質ではありませんし、お城に上がる際のマナーも最低限しか知りません。そういう意味では、貴方の言葉は事実です。ですが、」
言葉を一度切り、すっと息を吸う。濡れた服が気持ち悪いけど、それに構わず、背をしゃんと伸ばし、令嬢の目を見据えて、は、毅然と言った。
「自分の立場と力に傷ついて絶望して、それでも生きてくれる選択をしたエステルを! 帝国のためにと沢山のことを悩みながらも、命を賭して尽力したフレンを! 私が尊敬する、私の大切な二人を、何も知ろうとしない、何も理解しようとしない、自分たちの言葉さえ聴けば良いと思っているような高慢な貴族であろうとしかしない貴方が、侮辱しないで!!」
最後は殆ど叫んでいた。……口から飛び出してしまった言葉はもう取り返しがつかない。おそらく、この後はこのご令嬢が騎士を呼び、不敬罪だと言ってを捕らえる様に命令するだろう。
所詮自分は平民だ。城の中での立場など、目の前の彼女とは比べるべくもない。ご令嬢だってエステルへの酷い中傷をしているが、そんなもの証拠がないだとか周りの騎士を黙らせてなかったことにされるのが関の山だ。
案の定、ご令嬢は怒りのあまり顔を真っ赤に染め上げながら、騎士たちを呼びつけた。ガシャガシャと金属音が複数近づいてくる。
「遅いわ! 全くお前たちときたら本当に愚鈍ね!呼んだらさっさと来なさい!」
「……申し訳ございません」
「次はお父様に言いつけますからね。……それより、この汚い下民の女がわたくしを侮辱しましたの。……”いつものように”、逮捕してくださる? 」
いつものように、という部分に引っ掛かりを覚える。まるで、駆けつけた騎士たちが自分の手の人間であるかのように振舞う令嬢におかしいと思ったが、それを解消するような問答は期待できないだろう。そして、ぱちん、と閉じた扇でを差した令嬢が、に向かってつかつかと歩み寄ってきて。
「……ああ、待って。わたくしを侮辱した罰を、わたくし自らも与えてさしあげなければ」
飾ることしか知らない細い手を大きく振り上げた。目標は、の頬だろう。叩かれるのは痛いけど、ここで怯えた姿を見せて、馬鹿にされたり負けたくなかったから、毅然とした目線を令嬢に向ける。
だから、令嬢の手が見覚えある籠手に止められるのを見て、いささか拍子抜けしてしまった。
「そこまでです、マルガレータ・ハインシュタッド嬢」
を背にして、普段よりも硬い声で彼は令嬢に告げる。少し乱れた息を整えながら、厳しい表情でご令嬢……マルガレータという名前だったらしい彼女を見つめるフレンに、流石の彼女も怯んだようだった。―――後々になって聞いた話では、どうやら、フレンは彼女に対して笑顔で対応していたらしい。いつ、いかなる時も。令嬢が評議会の関係者であるが故に、隙をみせないよう努めて笑顔での対応をこなしていたのだろう。……もしかして、の部屋に泊まりにくる時、たまに、妙に疲労感たっぷりの仏頂面でに抱きついたまま離れない事があるのは、このご令嬢関係だったりしたのだろうか。
令嬢が引きつった笑顔でフレンを見上げて、じわりと青ざめているのは、きっと彼が今まで本当の表情を向けていなかったことに気付いたからだ。恐らくそれに気付いた令嬢は、瞬時にフレンに取り入るのを諦めたのだろう。極々小さく舌打ちをして、けれど次の瞬間には、が貴族である自分を侮辱したと怒涛の勢いでフレンに訴えだした。ちゃっかりと彼の胸にすがり付いてまで。
フレンを馬鹿にしたくせに、とかなりのイライラを覚えただったが、それを口にするのもなんだか癪で仕方なかったので無言でフレンの背中を見つめていた。
と、令嬢の必死の訴えを黙って聞いていたフレンが厳しい顔のまま、背後のを振り返る。はその視線に気付かず、フレンが身にまとった外出用のマントだけをひたすら見たままだったから、その時フレンが盛大に顔をしかめたのを知らない。がフレンの横顔に視線を戻した時には、青の眼差しは既に令嬢とその背後に集まっている騎士数名に向けられていた。
「貴女の訴えは判りました。不敬罪、ですね。……確保しろ」
重々しく告げられた言葉に喜色満面の令嬢だったが、その表情が―――反転したのはその刹那。
令嬢の背後に立った騎士たちが拘束したのは、令嬢本人だったのだ。
なにが、と声にならない声で零す彼女は、どうやら先に駆けつけてきた騎士達が彼女子飼いの騎士ではなかったことに気付いたようだった。
「な、貴方たち誰よ……、……っ、放しなさい! この、無礼者!!」
騎士に両手を後ろに捻られて叫ぶ彼女が、憎しみをこめて、この展開に呆然とするを睨む。痛みと屈辱のせいか、赤い瞳にはうっすらと涙の膜が張られていた。
「不敬罪に問われるのはそこの下民よ! 何をしているの、はやく捕らえて! ねえ、早く」
「―――貴女が」
令嬢の声を遮り、フレンが静かに語りだす。
「エステリーゼ副帝陛下を侮辱される言葉を、今ここにいる者全員が耳にしております」
―――それからは、あっという間だった。
なおも喚き散らす令嬢は騎士たちに後ろ手にきっちりと縛り上げられてしまい、殆ど身動きが取れない状態になりながらもとフレンを恨みがましく睨みつけるが、そんな視線などどこ吹く風で、フレンは更に言葉を続けた。
「また、これまで数回にわたり実行された、彼女に対する嫌がらせなどにおける器物破損、軽度とは言え傷害の罪もあります。それから貴女は、貴女の父君が主導で行われた、人身売買についての重要参考人です。この後貴女は騎士団に連行され、取調べを受けていただきます。何卒、お覚悟下さい」
フレンが一人残った騎士に、「ソディアかウィチルに、今日の今後の予定を全て明日にずらすように伝えてもらえないだろうか」とか、「伝言役すまない。助かる」とか、何か色々と伝えているのを、背中にかばわれたままのはぽかんと口をあけたまま眺めていた。
そうして伝言を任された騎士が回廊から姿を消し、二人きりになる。フレンがそっと周囲に視線を配り、とフレン以外誰もいないことを確認すると、ようやくを背中の影から開放した。
懐からハンカチを出し、優しい手つきでの顔についた泥を拭ってゆく。それから、不意に顔を赤らめの肩に外套をばさりとかけた。自失状態のはそこでようやく気がついた―――自分の見るも無残な姿に。
「う、あ、ありがとう、ごめんね、みっともない格好で、こんな……!!」
今更恥ずかしくなって、はかけてもらったマントを両手でかき寄せた。とんでもなくはしたない格好に顔がどんどん熱くなる。
「いや、君が謝ることは全くないんだ。…………ただその、……すごい、目の毒……で……」
慌てたフレンの返答は、しかし後半になるにつれ殆ど聞こえないほど小さな声になった。恥ずかしさで頭がいっぱいだった所為か全く聞き取れなかったは、思わず首を傾げてフレンを見上げる。何も判っていないに、フレンが赤らんだ頬のまま苦笑した。
流石にその格好のままでいるのは不味いから僕の部屋へおいで、と言ったフレンが、なるべく人気のない通路を通るようにしたのは、泥水まみれのの姿を慮ってくれたのだろう。時々誰かとすれ違う度に、フレンがそっと壁になってくれる。こういうことをさらりと出来てしまうフレンは、きっと城内の女性からの人気が高いんだろう。さっきのご令嬢も、きっとそのうちの一人だったのでは……と、ふと思う。だから彼女はフレンとひときわ近しい位置にいたを敵視したのではないか。そこまで思い至ってから、はたと気付いた。
―――また、これまで数回にわたり実行された、彼女に対する嫌がらせなどにおける器物破損―――
フレンが令嬢に口頭で突きつけた罪状。数回にわたり、と確かに言っていた。と、言うことは。
「……ねえフレン、聞いてもいい?」
「うん、何かな」
「もしかして、嫌がらせのこと随分前から知ってた……?」
「…………知っていたよ。これでも騎士団長として城内の安全のために出来事を把握する必要があるからね」
フレンの答えは、の努力が全くもって実っていなかったことを示していた。
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