これが間違いか、とは悟った。少しずつ近づいてくる白澤の顔を呆然と見つめ………… 「失礼します」 「おゴっ!?」 ていたら、バリトンボイスと草庵の入り口の板戸とゴシャアという衝撃音とともに白澤が真横に吹っ飛んだ。 手を取られていたも一緒に引っ張られかけたが、さっと伸びてきた腕に引き止められた。そのまま一気に温かい胸板に抱き寄せられる。 「さん、ただいま戻りました」 端から見たら凄惨な殺戮の現場に全くそぐわぬ言葉が降ってきた。まさかの上司の登場に今度こそ呆けて、は再び機能停止する。っていうか、鬼灯様の出張もう後数日かかるんじゃなかったっけなんて、 の飛んでいきそうな意識の片隅に湧いた疑問へ、鬼灯はひとつ頷いた。 「視察が思ったより早く終わりまして。閻魔庁に戻ってみれば、大王が貴女をこの淫獣の店に使いにやったと抜かしやがりましたから迎えに来たんですよ」 さぁとっとと帰りましょうとの背を抱いた鬼灯が、青ざめたままの桃太郎から紙袋を受け取る。 その桃太郎の足元では真っ白な毛並みの犬が「桃太郎久しぶりー」とじゃれついていた。そして桃太郎の背をスカーフを首に巻いた猿と雉が労るようにそっと叩いていて、この子たち桃太郎さんのお供の子かな、なんてぼんやりと推測する。ここ数分弱の怒涛の展開での思考は見事にさっぱりまっ白けになっていて、考えることが全くもってどうでもいい内容ばかりである。 「ちょっと待てそこの一本角ォォォ!!!」 「っチ」 背後から飛んできた怒声に鬼灯が舌打ちする。が振り返ると、吹っ飛びすぎて壁に激突していたらしい白澤がよろりと立ち上がるところだった。鼻からは血が滴っていて思わず息を呑み、恐る恐る口を開く。 「だ、大丈夫ですか、白澤様……?」 「ん、平気平気、僕丈夫だし。心配してくれて「あ」んな好色ど変態の心配なぞしなくてもいいですよ」 ……………………。 「おっまえな…………!!」 「まったき事実でしょうが。どうせ彼女の弱みに付け込んで閨に連れ込もうとしたんでしょう」 「え」 半分予想はしていたけれど、鬼灯の口から出てくる推測には思わず声を上げた。それで鬼灯の意識がに向いたのか、 「さんもさんです。貴女があの世の噂話をシャットアウトする理由はわかりますが、こいつの悪評ぐらいはちゃんと耳に入れておきなさい。みすみす貞操の危機を晒してどうするんですか」 「え、えぇと、す、すみません……」 「おいコラ、僕を無視するんじゃねェ!」 「まだいたんですか」 鬼灯の三白眼が更にきつくなった。が思わず怯えるその表情に、しかし全く臆することなく、白澤はツカツカと近づいて鬼灯に指を突きつける。 「大体な、これは僕とちゃんの間の話だよ!? ちゃんが僕の言うことなら何でも聞いてくれるって言ってくれたんだし、僕が何をお願いしてもお前に止める権利がないだろ!」 「ありますよ、私はさんの上司です。部下を守るのは上司の務めでしょう。何戯けたこと言ってるんですかこの淫獣めが」 「はぁぁ!? 上司だからって部下の恋愛の自由を奪っていい理由にはなりませええぇん! …………はっはーん、もしかして」 白澤の釣り上がっていた目が、急ににんまりと弧を描いた。手で口元を隠しているものの、ニヤニヤした笑いが見えている。鬼灯の腕の中のは、二人の言い争いにまたもや置いてけぼりを食らってしまいぽかんと口を開けたまま両者を見比べ、お供たちに慰めれられていた桃太郎は(アカン)という顔で額を抑えた。 「…………お前、ちゃんのこと好きなんだろ」 ニヤニヤした白澤の笑顔をじっとひたすら見る鬼灯の視線が、数十秒後すっと逸らされた。その瞬間、まさに鬼の首を取ったと言わんばかりに笑顔を輝かせた神獣は「ぶっふぅぅ、図星でやんの!! 図星でやんの!!」と囃し立てる。 「…………それがどうかしましたか」 「べっつにー? いやぁでもお前がねー。へええー、…………ぶふ、似合わなくて笑えて仕方ないんだけど! てかもしかしてちゃんが大事すぎて手が出せないとか? うはぁほんと勿体無い! 真っ赤になっちゃうちゃんってあーんな可愛いのに、見てないんだ?」 アカン、これ余計なこと言うフラグが立った。 と桃太郎の心配が完全一致した瞬間である。 「僕なんかちゃんに口吻しちゃったしぃ! ごぉめんなさいねぇーお先に頂いちゃっ」 うわ言いやがった、とが顔をしかめたのと鬼灯が携えている金棒が白澤の頬にめり込むのが同時だった。 さっきよりもよっぽど力がこもっていたらしく、店部分の壁を突き抜けたところで白澤が沈黙したまま動かなくなっている。 あばばばばばとと桃太郎とそのお供たちが泡を食っていると、鬼灯が機嫌の悪さを容赦なく全面に押し出してを見た。そのドス黒い威圧感に思わず喉を鳴らすと、いつもより更に低い低い声が鬼灯の喉の奥から搾り出される。 「…………どこですか」 「はい?」 「あのろくでなしに、どこに、口付けられたんですか。早く言いなさい」 命令口調でそう断じると、の顎に手をかけた。「言わなければ、」耳朶を打つ声がにとって恐ろしく不穏な響きを持って、 「このままここで口付けますよ」 言うが早いか鬼灯の顔がスッと迫って、 「みみみみみみ右手の甲です!!」 ―――唇が触れ合う直前でピタリと止まる。 チッ、と舌打ちが聞こえたが、全力でスルーだ。今日は何だか、心臓が働き過ぎて色々もたない。思わず熱くなった顔を手を団扇のようにして扇いだ。白澤には申し訳ないが、トンデモ展開からようやく開放された気がする。 そんなを、お預けを食らう形になった鬼灯は据わりきった目で見つめ、やがてため息をつくと懐から一枚パックされた袋を取り出し、 「消毒です」 そう言って開封された消毒用のアルコール脱脂綿でせっせとの右手の甲を拭き清めるのだった。 尚、閻魔庁に戻ったら閻魔から涙ながらに「無事でよかったワシ助かった」と縋り付かれたのも言うまでもなかった。
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