それは、が鬼灯の秘書になってからしばらく経ち、かの鬼神が出張で居ないある日のこと。


「いいかい、ちゃん。白澤くんの草庵に桃太郎って弟子の男の子がいるから」
「はい、桃太郎さんですね。……あぁ、先日鬼灯様がお会いになったっていう……」
「うん、そうそう。それでね、今回の件は桃太郎くん(だけ)に話を通してあるから、必ず彼を尋ねるんだよ、……白澤くんはいいから」
「はい、わかりました。……白澤様ご本人にはご挨拶しなくてもよろしいので?」
「いやぁ、本来はそうするのが筋なんだけどォ……ワシそんな恐ろしいことさせられない……」
「そ、そうなんですか……(閻魔様が恐ろしがるなんて、よっぽど厳格な方なのか……)」
「うん、恐ろしいんだよ……(鬼灯くんに、ちゃんと白澤くんを会わせた、なんて絶対に言えないし……)」


そんな思惑のすれ違いが有ったなんて、白澤を欠片も知らなかったが知る由もなかったのだけれど。







 

 









地獄をこよなく愛する生粋のインドア派なにとって、天国はとんと縁がなかった。これまで就いてきた業務内容が地獄や閻魔庁の中だけで片がつくものばかりだったし、買い物は近所の商店街の品揃えが意外といいおかげで不自由もなく、高天原のショッピングモールは華やかすぎて何となく気後れするので憧れはあっても行こうと思うことすらない。
というわけで、閻魔大王に頼まれたお遣いで本日天国デビューを果たすことになった閻魔庁第一補佐官秘書であるが、早くもめんどくさいことになった。


「ね、ね、君この辺初めて? すっごい可愛いねー、なんて名前?」
「すみません、仕事がありますので退いてくださいますか」


これである。
確かに天国初来訪、地図は頂いていたが地理に詳しくないからキョロキョロと周囲を見回すことになるわけで、どう足掻いてもオノボリさんにしか見えないだろう。だからって初っ端からナンパに捕まらなくてもいいじゃないか。しかもこのナンパ男、微妙にしつこい。思わず軽く睨めあげると何が楽しいのか男はにこぉっと笑った。
白衣を着たひょろーりとした長身は、鬼灯と同じくらいに見える。顔立ちもパーツはそっくりだが、鬼灯が決して浮かべることのないへらりとした笑顔のせいで雰囲気は決定的に違う。


「どこいくの? 僕このあたり詳しいから案内してあげようか?」
「お気持ちはありがたいんですが、結構ですのでどうかお構いなく」


尚もまとわりつく男をスルーしつつ、手元の地図を広げて見る。すると男も同じようにが持つ地図を覗き込み、


「…………あれ、何だ君うちに用事があるの?」
「…………はい?」
「僕、そこの主だヨ。白澤といいます、こんにちはー」
「は…………は?」

衝撃発言で機能停止したの手が、人の姿をした神獣に捕らえられた。







「さっ、先程は本当に…………白澤様を存じ上げていなかったとはいえ、失礼な態度をとってしまって本当に申し訳ありません……!!」


呆然としている間に目的地に連れて来られたはすっかり真っ青になって、桃太郎が出してくれたお茶を前に深々と頭を下げた。「いやー無理もないですよ、普段のアレだと名乗られない限りは……」なんて桃太郎がフォローを入れてくれるが、それでもひどい失敗だと我ながら思う。
白澤といえば、古代中国から神獣として名高い存在だ。そんな相手にとんでもなく失礼なあしらい方をしてしまった。自分の首が飛ぶだけならまだしも、これで閻魔庁に迷惑なぞかけてしまったら。―――鬼灯に、嫌われたら。
常日頃から鬼灯のアプローチを面倒がっている割に、いざ嫌われるかもとなったら変わらず好いていて欲しい……なんて虫が良すぎる願いに自分の高慢さと我侭な性根を垣間見て、余計に顔から血の気が引いていく。
せめて閻魔庁や鬼灯に怒りが及ばないようにと思いを込めて、どうかお許しを、と震える声で乞えば、白澤はきょとんとあっけにとられた顔でを少しの間見つめた後、桃太郎と示し合わせたように顔を合わせ、カラカラ笑い出した。


「アハハハ、僕怒ってなんかないよー。そんな怖がらなくて大丈夫!」
「……この人が女人に声を荒らげたり怒ったりするところなんて見たことありませんよ俺」
「そそ、僕女の子には須らく優しくあるのがモットーだからね。そんなに恐縮してなくていいから、そろそろ君の名前教えてくれる?」


明るい声で問われて、そういえば名乗ってすらなかったことを思い出し、ガタリと音を立てて椅子から立ち上がり、慌てて一礼。


「申し遅れました! 私、閻魔庁第一補佐官秘書のと申します。本日は閻魔大王の使いとして馳せ参じた次第です」


名乗った瞬間。
桃太郎の顔が一瞬で青くなり、白澤の目はこれでもかと言わんばかりに見開かれた。桃太郎は後々、この時、閻魔大王が自分だけに使いをよこすと言った意味と理由を八割がた読み取り、「近いうちに閻魔様ともども鬼灯さんにフルボッコにされる」と予感したという。
そんな桃太郎をさておいて、白澤は唖然としたままを指さし、確認を口にした。


「え、っと、第一補佐官秘書? ってことは、ちゃん、君ってあいつの、秘書?」
「白澤様が仰るあいつ、を指すのが鬼灯様のことでしたらその通りです……」


また何かしでかしたのかもしれない。桃太郎はさっきまでの自分みたいにフリーズして動かないし、白澤は笑顔が固まってしまっている。また失礼なことをしてしまったでしょうか、と恐る恐る伺った。何とも居心地が悪くて、失礼なのを承知でついうつむき加減で白澤を見やる。
そこでようやく白澤の表情筋が緩んだ。神獣の若干頬に赤みがさしたゆるい笑顔に、とりあえず最悪の事態は免れたらしいとほっと息をつく。


「いやいや違うよ、ちゃんがどうとかってんじゃないから! あいつの側にこーんな魅力的な娘がいたなんて知らなかったからさ、びっくりしただけ」
「み、魅力的なんてそんな、過ぎた言葉を頂いてしまって……」
「僕が言うんだから絶対だって! っていうかさ、いつから秘書やってるの? ……それなりに付き合い長いはずなんだけど、悔しいことに君のこと全く知らなかったし」
「はい、つい数カ月前からこのお仕事を頂いております。それまでは閻魔庁地獄資料室の管理主任を拝命しておりまして。表に出ることは稀でしたので、お会いする機会はまずなかったかと」
「そうなんだー…………そっちはあいつのツラ嫌でも拝まなきゃいけなくなるからってんでノーマークだったな……くそ、惜しいことしてた……こんな可愛い子いっきゅうひんいたなんて……」


アカン、口説きスイッチ入った。
間違いなく入っちゃいけないスイッチが音を立ててオンに動いた現場を目撃した桃太郎の顔はもはや彼の友人(犬だが)の体毛と同色である。
だがそんな桃太郎を全く気にかける素振りのない白澤と、相手が(腐っても)神獣であるが故に緊張で周囲が見えないのおしゃべりは続き。


「……それにしても、先ほどは本当に失礼なことをしてしまって申し訳ありませんでした」
「もー、そんなに気にしなくたっていいのにー。そこも可愛いけどさ、ほんとに全然気になってないから、ね?」
「それでは私の気が済みません……私が、というのもおこがましいのですが、お詫びに何か出来ることがありましたらお申し付け下さい」


アカン、間違いなく閨のお誘いフラグ立った。
その言葉を聞いた瞬間、白澤の口元に勝利の笑顔が浮かぶのを桃太郎は見た。


「……何でもいいの?」
「はい、ご期待いただけるほど大したことは出来ませんが」


念押しするかのような白澤の口ぶりに、は真剣な顔をつくって頷いた。白澤が気さくな性格なのはよかったが、それでも自分のしたことは不敬にも程があるのだし、罰なり何なりなければ、というのがの心情だった。
それを理解したらしい白澤がそれなら、と、立ち上がるのを、は目で追う。薬を扱う両手が恭しくの右手を取り、そのまま神獣の口元へ。
チュ、と軽い音を立て手の甲に口付けられて、はぎょっとした。その側で桃太郎が一言終わった、とつぶやいていたが、耳には入ってこない。相手が誰なのかを忘れて慌てて手を引こうとするが男の力に適うわけがなく、逆に引き寄せられて混乱がますます強くなる。
の様子を見て微笑ましげに目を細めた白澤はもう一度手の甲に唇を寄せて、今度は舌先でうっすらと舐めた。「ひぇ、」と細い悲鳴が上がって、の顔が林檎のように赤く染まる。今度は何を間違えた? 何でこんなことにとパニックに陥りかけるに、白澤が低く囁いた。


「僕のお願い、きいてくれるんだよね?」




 

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