「よーし、十分休憩!」 カントクの声が体育館に響く。 そこかしこから、力の抜けた呻きが上がる中、ボクは一人体育館の外へ出て行く。正直基礎練のきつさに元々大した体力のないボクの体はギブアップを要求している。だけど、心は叫んでいた。たった十分の休憩、ここを逃がしたら今日は会えないかもしれない。だから、会いたい。会いに行きたい。 ―――この時間、彼女は部室棟裏の洗濯物干すスペースで仕事をしている筈だ。 ここ数日雨雲の中に隠れて手抜きの仕事をしていた太陽が張り切ってその恵みを惜しみなく地上に与えている。そんな平日の午後、夏の片鱗を見せつける校庭の脇を抜けた先が目的の場所。 少し調子外れの小さな鼻歌が耳に届いて、ボクは気付けば駆け足になっていたスピードを意識して緩めた。 鼻歌の主である彼女は―――さんは、こちらに背を向けて熱を帯びた風に揺れるタオルたちを確認しているようだった。一枚一枚手に取って、嬉しそうに目じりを下げる。どうやらお眼鏡にかなったらしい、さっさっ、と手早くタオルを取り込んで近くの大きな(少なくともさんの両手に余りそうなサイズの)カゴに次々放り込んでいく。その手馴れた動きに感心しながら、ボクは彼女の背後数メートルの所で、声を掛けた。 「お疲れ様です、さん」 ボクの存在の薄さは自他共に認めるもの。大体の人はボクが声を掛けると飛び上がるほどに驚かれるのが殆どだ。だけどさんは、何事もないようにこちらを振り返り、ふんわりと微笑んで、言う。 「お疲れ様、黒子くん」 中学の頃からの長い友人関係の所為か、彼女はボクに驚くことが殆どないという希少な人だった。笑顔で返事をくれる。それが今のボクには貴重で、嬉しくて、どこか照れくさい。 もっとも、そう感じるのはボクがさんに特別な感情を抱いているせいなのかもしれないけど。 さんはボクに向き直ってから、僕の全身が汗だくになっていることに気付いたらしい。「本当にお疲れ様」と足元のカゴからとり込んだばかりのタオルを一枚差し出してきた。深いオレンジ色のそれを受け取ると、……なるほど、さんがさっき嬉しそうにしていたのも頷ける。それぐらいふかふかでやわらかい仕上がりだった。顔を寄せると太陽の香りと柔軟剤のフルーティな甘い香りが鼻をくすぐる。 「洗ったばかりだからきっと気持ちいいと思うよ」 さんは垂れたタオルの片端を手にしてボクの顔を軽く叩くように汗をふき取る。ふわふわのタオルの感触の中に、時々少しひんやりした指先やてのひらが上気した頬に触れて、その温度差が何故か気恥ずかしい。 そして、……近い。汗を拭いてくれているのだから近いのは当然だけど、こんなに接近したこともなければされたこともなかった、ほんのちょっとでも手を伸ばせばボクよりも華奢なその体を腕に閉じ込められる距離。 さんの汗のにおいと、それに混じる甘い柔軟剤のにおい、彼女の体温をすぐ傍で感じてしまい、目が回りそうなほどに胸の動悸が激しくなる。幸い、表情筋がなまけものであるボクの顔にその動揺が現れることはない。その代わり、暴走して思わず抱きしめてしまいそうになる腕を必死に抑える必要があったけれど。 「あ、……ありがとうございます」 やがてある程度汗をふき取れたのに満足したらしいさんが、一歩分だけ離れた。至福とも一種の拷問ともとれる時間が過ぎたことに心の奥で安堵しながら、何とかお礼を述べる。 もうあと数秒でもあのままだったら、抱きしめてしまうところだった。バスケに関することには若干考えなし突撃してしまうところがあるボクだが、流石に対女子、しかも好きな人に自分の気持ちだけを押し付けるのは如何なものかと思う。理性は大事だ。そう、理性は、 「わたしね、黒子くんの頑張ってる姿が好きだよ。見てるだけでわたしも頑張ろうって力をもらえるの」 いつもいつも、力貰ってばっかりだから、これくらいはさせて。 ふわぁ、と頬を上気させてさんが微笑んだ。目を三日月にして、どこか照れた様に真っ直ぐにボクの目を射抜く。 ……理性なんてくそくらえ、でした。 さっき貰ったタオルをさんの顔を覆うようにバサリと掛ける。……ボクの汗を吸ったのは端だけで、真ん中へんは汚くはない、筈。 ひゃ、と視界を遮るタオル攻撃に悲鳴をあげるさんの両肩をそっとおさえて、 タオル越しの唇にキスをする。 途端、さんの動きがぴたりと止まった。 ボクはすぐに離れて、数瞬の後に、ぎこちなく、のたのたとタオルを手繰るさんの様子を窺う。 やがて現れた彼女の表情を見て、思わず「かわいいですね」なんて囁いてしまってもきっとボクに罪はない。
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