一瞬何でこんなことになっているのかわからなかった。


友人との外出の帰り、自宅横の路地に黒尽くめの人を見つけた。
ユーリは数日前からギルドの仕事でダングレストへ出かけていたので、何日かぶりにその姿を見た途端、一気に喜びがこみ上げてきて、駆け寄ったところまではよかった。
呼びかけようとして気づく。こちらを見るアメジストの目はまったく笑っていない。それどころか瞳の奥底には仄暗い感情が揺れていて、思わず名前を呼ぶことを躊躇った。そうしたら、いきなり強い力で手首を掴まれ、引き寄せられ、その力のまま壁に体を押し付けられた。急な衝撃に息がつまる。


「―――なあ」


とん、と顔の両脇の壁にユーリの手が付かれた。あまり聞き慣れない、何かを抑えて抑えて我慢する声にはビクリと体を揺らした。見上げようとして、顔の位置が妙に近いことに息を呑む。彼の目には先程の暗い感情と一緒に切なそうな光もあって、何だかよくわからないまま、はおずおず手を伸ばしてユーリの頬に触れた。


「なぁ。―――俺はもう必要ないか?」


いきなり何を言い出したのかわからなかった。言葉を反芻して、意味を理解した途端、は必死にブンブンと首を横に振る。必要ない、なんて、そんなわけあるはずがないのに。
触れた手をとり頬からそっと剥がしたユーリの顔から、急速に怒りの印象が消えてゆき、残ったのは誰かに縋りたくてたまらない子どもみたいな表情で、そんなユーリを見ると、胸がぎゅうっと苦しくなる。そんな顔しないでと思うと同時に、そんな顔をさせたのは恐らく自分だというのだけはわかって、涙が勝手に溢れてきた。


「……わりぃ、泣かせるつもりはなかったんだけどな」
「いいよ、そんなことよりユーリが何でそんなこと思ったのか知りたい」


ぐしぐしと握り拳で涙を拭うと、「目ぇ赤くなんぞ」と目の前の幼馴染が喉の奥で笑った。その眼差しはまだ少し弱ったままで、けれどさっきまでの頼りないものではなくなっていて、ほんの少し安心する。だが本題はここからだ。―――ユーリは何故自分を必要ないなんて言ったのだろう。
ずいぶん気まずそうな顔をしたユーリは、くるりと回りながらの隣に並んだ。壁に凭れ掛かるように。


「あー、できればこっち見ないで話聞いてくんね?」
「え、―――あ、うん」


どうやら相当にバツが悪いらしい。ユーリに照準を合わせていた視線を真逆の方向に向けて、は頷いた。サンキュ、と短い礼が返ってきて、それからしばらく沈黙に包まれる。


「―――さっきな、お前が知らねえ男と歩いてるの見てさ。腕まで組んでて、すげえ楽しそうに笑ってて。あんまり、お前とそーいうのしてねぇなって思って。いや、そもそもあの男誰なんだよって話もあんだけど、なんてか、俺お前に何か、デートとかそーいう、恋人らしいことしてたかなってさ 。そう思ったら、……俺は…………」


気まずげに吐露されたユーリの言葉に、思わずまばたきを繰り返し。


「ええと、まずひとつ誤解を解くね」
「誤解?」


疑問を隠さないユーリの声色に、うんと頷いて見せて、


「ユーリが見たっていう、私と歩いていた男の人、…………あれ、ティナよ」
「は?」


そっぽを向いていたユーリが驚いてこちらを見た。ほら、と件の”男性”と撮った写真をユーリに手渡すと、アメジストの瞳が食い入るように写真を眺めだす。
ティナ。本名をクリスティナと言い、ユーリやと同じ下町育ちで、とある劇団ギルドに役者として所属している立派な女性である。最近新しい舞台に上がることになったのだが、その劇が男女逆配役だったらしい。男性らしく振る舞うために、男性の立ち回りの練習をさせて欲しいとティナに頼まれて、は先程まで男装した彼女に付き合っていたのだ。
―――ということをかいつまんで説明すると、ユーリの顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。


「くっそ……ティナの野郎完璧に男じゃねーかよ……」


俺情けねぇとずるずる座り込むユーリの正面には立った。差した影に目線を上げたユーリが、一瞬で顔を引きつらせた。それもそうだろう、今、は―――、かつてないほどに、怒っている。


「えーっと、、さん?」
「何でしょうユーリさん」
「……いや、その、もしかしてすげえ怒ってる……?」
「もしかしなくても怒ってます」


座り込むユーリと目線を合わせて両手を伸ばし、両頬を挟みこむようにバチーンバチーンと何度か叩く。いて、ちょ待って、と何度か泣きが入ったところでは目を据わらせて幼なじみ兼恋人をジトッと睨みつけた。


「ユーリは私の事バカにしてるの? 何でそれしきのことで私がユーリを必要ないとか思うなんて思っちゃうの?」
「え、あ、いや」


ようやく、何に怒っているのか察しがついたらしい。後悔の表情を浮かべたユーリが、額に手を当て低く唸りだして目を伏せるのを見て、はますますヒートアップする自分を自覚する。自覚はしたけれど、いっそきっちり判ってもらわねばと妙に意気込んで、


「ふざけないでよ私がどれだけユーリのこと好きかも知らないで勝手に人の気持ち決めつけて! 恋人らしいことしてない? そうだねしてないね。欠片もしてないね。でもねたったそれだけのことでしょ? そんなことしようがしまいが私の気持ちがそんな簡単に揺らぐもんか。ていうかね、恥ずかしいからあんまり言いたくなかったけどギルドの仕事で飛び回ってるユーリのこと物凄く尊敬してるしかっこ良く見えるし、私はそんなユーリのことが誰よりも大好きなんですよわかります? それをさ、俺必要ない? って何なのほんと乙女か、私がユーリを好きだって気持ちを見くびらないで欲しいんだけどそこんとこどうなのねえユーリさん」


胸の内を清々しいまでに言い尽くしてみる。を見るユーリの顔が面白いほど呆然としていて、それを見とめたの心の中で何だかよくわからない勝利の感覚が生まれた。


「…………お前、キレるとすげえのな……」
「お褒めに預かり光栄です」


その勝利に酔ったまま、すくっと立ち上がってふんぞり返ってみせると、ようやく黒尽くめが笑顔になる。……その笑顔は若干ひきつってはいるが、多分大丈夫だろう。


「いや褒めてねーけど……や、うん、悪かった、ごめん」


それと、サンキュ。感謝の言葉に、はふんぞり返ったまま微笑み、直後に顔を覆ってしゃがみ込んだ。完全に血が頭にのぼっていた、だってユーリが馬鹿なことを言い出したからだ。まったくもって腹立たしく、まったくもって恥ずかしい。


「あああああもう恥ずかしい…………!! ユーリの馬鹿、ほんと馬鹿」
「悪かったよ、悪かった。お詫びにカプワ・トリムの有名なケーキバイキングの店連れてってやるから」
「…………ダングレストの『天を射る重星』も」
「ちょっ……いや、ああわかったよ、連れてくから」
「それからあとは」
「待てまだあんのか」


 




結局、その他に三軒程追加して許してあげた。