悲鳴の一つもあげるタイミングもなかった。 ちょっと険しい崖のふちを歩いていて、偶々最後尾を歩いていて、それから、それから。 思い返そうとすると、靄がかかった様に記憶がかすむ。呼応するように頭と右の足首が痛みを主張して、声にならない呻きが漏れた。 ちょっと洒落にならない痛みだな……、眉をひそめつつ右足首を窺うと、うわぁ、すごい腫れてるじゃないか、とは顔を青くした。 履いていたはずのブーツはどこにも見当たらない。トレンカの土踏まずにひっかけるストラップは綺麗に破れていて、めくれ上がった部分から覗く踝付近が赤黒く膨らんでいた。素人目に見ても骨いっちゃってるんじゃないかと簡単に想像できて、ひえぇ、と体が仰け反る。 仰け反ったそのついでに、上を見上げた。ズキズキする頭の痛みを無理やり無視しながら。 視界に入ってきたのは、随分と傾斜が急な荒れた岩壁と、爽やかな青い空、そして、岩壁を身軽に降りてくる、黒尽くめの人影。 人影? ぽかんとその黒を見ていると、よっこらせ、とちょっとじじむさい声と一緒にの前に降り立った。 黒い綺麗な髪がふんわりと靡いて、男の人のクセに美女に見えてちょっと悔しい。 エセ美女ことの幼馴染は、最初何か文句を言おうとしたようだったが、既にボロボロの姿を見据えたときに絶句して、「はぁ、」と重たい息をついた。 それから懐に手を入れて、綺麗な布での血まみれになった顔をそっと拭く。見る見るうちに血の色に染まってゆく木綿のハンカチを見て、折角のハンカチが汚れるのをもったいない、と霞がかった思考で思った。 「ばーか、道具は使ってなんぼだろーが」 どうやら口から出ていたらしい。心底呆れた調子のユーリはおしおきとばかりに(何のお仕置きなのかはわからないが)の鼻をキュッ、とつまむ。 「はぁひてようーり」 「誰がうーりだ」 ぴすん、と引っ張るようにつまんだ鼻を離されて一瞬ひりひりした痛みが残って、すぐに霧散する。 うー、と呻りながらユーリを見ると、何だか酷く不機嫌そうに顔を逸らしていた。その目元が淡い赤に染まっているように見えるが、ぶり返してきた頭の痛みが思考を邪魔して、目元が赤い、という事実以上の先は何も考えられない。 「っと、ちょっと待っとけ」 幼馴染の微かな変調に気付いたらしいユーリが、これまた懐からガーゼと包帯を出して手当てを始める。 「グミでどーこーなるような傷じゃねーから、上に戻るまでちっとそれで我慢しとけよ。後でエステルに診てもらえ」 どこかぶっきらぼうな調子で切れた額にガーゼを当て、出血がこれ以上酷くならないように慎重に包帯を巻きつけ、それから彼は周囲を簡単に見渡した。 お目当てのものはすぐ見つかったようで、待ってろと言い残してほんの数歩の距離移動したユーリが戻ってきた時、その手には丈夫そうな枝があった。添え木として、右の足首を固定するらしい。 その間もユーリは妙に不機嫌な表情でただただ黙々と包帯を巻き続けていた。その手際のよさは流石だと感じながら、何で怒ってるんだろう、と疑問に思ったまま、がずぅっとユーリを見つめ続けると、どうやらその視線を感じてむずがゆくでもなったのか、ユーリは「あーもー」とちょっと投げやりに息を吐く。 そして、何を思ったのか、そっと、本当にそっと。 普段のちょっと大雑把な所作からは想像がつかないような、柔らかさで。 傷に障らないように、静かに、を抱き寄せた。 「う、え、えっ、えっ」 「…………心配させんなよこの馬鹿。……死ぬかと思ったじゃねーか、俺まで」 「あ、え、そか、ごめんなさい……、!?」 「………っとに、……もしもお前がどーにかなってたりしてたら、俺……」 慌てふためくの耳朶を、何かを必死に抑えるようなユーリの低い声がくすぐった。 抱きしめられている所為か声がする位置が近くて、自分とユーリの間の距離がゼロになったことを突然気付き耳が異様な熱を持ち始める。 「ゆ、り、離し……」 急に恥ずかしくなったは怪我の存在も忘れたようにユーリの胸の中でもがく。 けれどその力はちっとも緩む気配がない。それどころかユーリまでの怪我を忘却の彼方に置いてしまったのか、腕の力はますます強くなる。 抱きしめられる感覚に混じって、時々頬に触れる、少し無骨なかさついた指の感触だとか、想像以上に広かった肩幅だとか、腕の力強さだとか、見た目の細さに反してしっかりと厚い胸板だとか、欠片も感じたことのなかったユーリの男性性をぬくもりと感覚で強く感じさせられて、胸の奥がざわざわと音を立て出して落ち着かない。 自分の中では性差をしっかり持っていたはずだったのに、こうして抱きしめられたことでその線引きが表面上のものでしかなかったことを知る。今の今まで、の中でただの幼馴染としか認識出来ていなかったユーリ・ローウェルという存在が違う何かに変容し始めて胸が苦しくなった。 (……もしもお前がどーにかなってたりしてたら、俺……) さっきのユーリの声色に、幼馴染に対するもの以上の何かを感じそうになって、は必死にその思考から目を逸らす。 (違うでしょう、そうじゃない、ユーリは私の過去に同情してるだけ、結果的に大怪我をさせた十年前のことに対して罪悪感を持っているだけ、私の事を好きだとかそんなこと思っているわけじゃない……) 必死にそう思い込もうとするが、変化してゆくユーリへの思いが期待を捨てようとしない。 突然、しかし今更のようにユーリをただの幼馴染だと思えなくなってしまった自分が信じられなくて、体に触れるユーリから伝わる彼の心音の速さが信じられなくて、……混乱と羞恥でぐるぐると目が回りそうだ。 ……と思っていたら実際に視界がぐるぐると回り始めた。羞恥に赤く染まっていた顔が今度はじわじわと青ざめる。 「………あっ、と、悪……うわ、おいちょっ……」 我に返ったユーリが珍しく焦って解放したけれど、既に遅かった。
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