「こっ、ここま、で、来れば、……大丈夫、だよ、ね……」


高速化の術式を使っているとはいえ、走るのは自分自身である。
全力疾走することどれだけ経ったのかはわからないが、気がつけば背後からものすごい形相で追いかけてくるユーリの姿が見えなくなり、ハルルの真南に出て暫くしたところではゼエハアと必死に息を整えていた。
正直酸欠過ぎて視界が薄暗いし、肺が変に痛む。基本的にちょっと特殊な体質なだけで体力その他諸々は普通の人に毛が生えた程度のものだ。色んな意味で必死だったとはいえ、ここまでずっと全力疾走が出来たのは奇跡に近かった。というよりむしろ奇跡だった。


「は、はぁああぁぁぁ……」


地面にぺたりと座り込んで、安堵のため息をつく。クオイの森の北側に位置するこの付近は、街道から少し逸れているうえに小規模の森が点在している。その小さな森の入り口近い木陰にはいた。



マイオキア平原に出てすぐ、(力に訴えてだが)ユーリを撒けたかなと安心したのがの間違いだった。
のあの仕打ちに何か勘違いしたらしいユーリが異様に怖い顔で爆走してくるのを見た瞬間、は自分の体の事をすっかり忘れて高速化のうえに更に術強化をかけた。
元の足の速度があんまりなので、ようやくユーリと互角に近いスピードといったところだが、なんだかよく判らないユーリの気迫にやっぱりなんだかよく判らないプレッシャーを感じたの脳内は無意識にリミッターを解除してしまったらしい。
意味不明の恐怖に引きつった顔のまま逃げる、その背後数十メートルを鬼の形相で無言でひたすら追いかけてくるユーリ、この両名による激走はデイドン砦の北部に抜けて暫くまで続いた。
途中「魔物が出たぞー」という大声が聞こえたような気がしたが逃げるのに夢中のにはどうでもいいことだった。実は魔物の大群が来る時期であり、それでもってユーリが近場に沸いて出た魔物たちを全て一太刀で切り伏せていたのだが、当のユーリも殆ど無意識の行動だったというのは後から聞いた話で判明するところである。
何はともあれ、毎年恒例の魔物の大群を行きがかり上かつ無意識で蹴散らしたユーリをどうにかこうにか撒かねばと死ぬ気で走り続けた結果、ふと背後からのプレッシャーが消えていて。
それでもは用心深く、万が一を考えて街道を離れて小さな森の中に身を潜め、そして今に至る。




にしても。




(好きな人から全力で逃げるとか一体何の冗談なんだろ……)


落ち着かない呼吸のままは苦々しく思った。やはりあの場で覚悟を決めるべきだったのだろうか。
だけど残念なことにあの場で覚悟が固まるようなら一週間時間を取りたいなんて思わなかっただろう。
結局逃げるしか選択できなかった、それだけは確かなことで。
考えれば考えるほど、自分の覚悟のなさに情けなくては膝を抱え込む。こんなことでユーリから逃げ切れたところで本当に覚悟を付けられるんだろうか。





ずどーんと沈み込んでいたから、彼女は気づかなかった。黒い影がゆっくりと近付いてくることに。






「おぅし、捕まえた」






低い低い声が、した。


「ひ……!?」
「よーし動くなよ


しゃがみ込んだまま青ざめたの腰を背後からがっちりと抱き込んだユーリが耳元で宣告する。
俗に言う絶体絶命という状態になって、は一気に恐慌状態に陥った。逃げなきゃ、と腕の拘束をどうにか外そうとするがユーリの腕の力強さと背中に感じる温もりに力が入らない。それでも往生際悪くもがいていると、





名前を呼ばれて無理やり顔を後ろに向かされた。そのまま唇を塞がれて、深く舌を絡め取られる。息苦しくて空気を求めようとしても、ユーリにそれを許すつもりがないのか逃げた傍から口付けられてままならない。全力疾走の後だったのもあって、次第に意識が遠のいてゆく。
キスで失神なんて一歩間違ったらバカップルだなぁ、なんて全く関係ないことを考えながら、ぷつん、と正気の糸が切れた。












淡いベージュの天井が目に入った。ふかふかした柔らかい布団にすっぽり包まれて眠っていたようだ。どこだろうと思って起き上がろうとすると、ドアが開く音がして。
そちらに目をやると、ユーリが水差しを持ったままドアの前に立っていた。


「具合どうだよ」
「あ、……うん、平気」
「少し水飲むか?」


水差しを目の高さまで上げてユーリが問う。その穏やかさとどこかしら戸惑ったような空気に首をかしげながら、は頷きコップを差し出す。
そこそこに長い間眠っていたのか、口の中はカラカラで、水が喉を通るのが気持ちいい。ユーリはそんなの様子を見ながら、ベッドの脇にあった椅子に腰を下ろして口を開く。


「なぁ、。俺に何か言うことねぇ?」


たとえば、お前の体のこととか。
続いた言葉に、水を飲んでいたは思わず咽た。落ち着けと背中をさすってくれるユーリの様子を見て彼がの妊娠を把握していることに気づく。気まずくなって俯いていると、ユーリが頭をガシガシかいてはぁ、とため息をついた。


「ここ、ハルルの診療所。お前が気ぃ失って焦って運び込んでさ」


意識を失ったを連れてハルルに来たはいいが、エステルがこちらに戻っているのかどうかまではわからなかったそうで。
仕方なく目に付いた診療所に運び込んで診察が終わるのを待っていたら、ご主人さんちょっと、と医師に呼ばれて、妊娠している事実を告げられた上に妊婦にここまで無茶をさせるなというお説教を食らったらしい。
実際無茶をしたのは個人なわけで、ユーリには特に罪もない(ないこともないのだが、大本の原因はにあるのが現実だ)。だけどそれを言ったところで仕方ないので黙って叱られてくれたようだった。


「ご、ごめん、私が叱られるところなのに」
「いいよ別に。つーか、そんなもんどーでもいい。むしろこっからが本題。………なぁ、何で逃げたんだよ」


そう尋ねるユーリの表情が、少し拗ねているように見えた。








「……んだよ、そういうことか……」


理由を話し終えると、ユーリはあからさまにホッとして力なくうな垂れた。


「てっきり、俺があんまり色々飛び回ってるせいでお前に愛想尽かされたのかと思ってたよ」
「ヘ…、愛想尽かすなんてまさか、そんなわけ」
「仕事とは言えほったらかしにすること多いし」
「ほったらかしなんてそんなことないよ、むしろユーリの夢が叶って私も嬉しいんだもの」


慌てて否定するとユーリの手が伸びてきて、頭を引き寄せられる。気を失う前の激しいものじゃない触れるだけの優しいキスが降ってきて、はそれを目を閉じて大人しく受けた。
気配が少しだけ離れたのを感じそっとまぶたを開くと、真正面にうっすら苦笑したユーリの端正な顔があって、相変わらず綺麗だなぁ、と惚けたことを思う。


「そう思ってくれんのマジで嬉しい。でもさ、お前の事だって大切なんだよ、他のものに変えられないし、子供できたってんなら尚更な」
「うん……」
「つーかさ、俺の夢はもう自分の意思でずっと続けていける。でも子供に関してはとりあえずは今このときしかないわけでさ、優先順位で言えば最上級だ。だから邪魔でもなんでもないよ」
「……うん、ごめんね」
「謝んなよ。俺のこと考えてくれたんだろ? つかすげーよ、子供出来たなんて、なんかびっくりしたけど嬉しい。………帝都に戻ったらまずは三人で住める家探すか、他にもベビーベッドとか…準備忙しくなるな」
「……っ、うん……」
「ま、大半は俺がやっとくからは安静にしてろよ、大事な時期なんだしさ。……っと、大事な事言うの忘れてたな」


妙に饒舌なユーリはそこで一旦言葉を区切り、一度深呼吸をする。饒舌なのはおそらく照れ隠し、深呼吸は多分何か言葉を繋ごうとしているのだろう。は知らず胸の前で両手を組みその言葉を待つ。








「なぁ。―――俺と、結婚してくれる?」








そのプロポーズに、は一も二もなく頷いた。







 








(なんつーか予想外だったけど、マジでホッとした)


まだ疲れていたのか、また眠ってしまったの髪を撫でながら、ユーリは一人思った。
―――離れてしまうのかと思った。
かばんで殴られた衝撃も大きかったけれど、彼女が自分から逃げた、そのショックのほうがよっぽど大きかった。
見限られたのかと本気で思い込んで必死に追いかけた結果、余計怖がらせてキスで失神させるという暴挙を犯したが、それはが自分から離れてしまうことに恐怖した結果でもある。
は否定していたが、ギルドの仕事で割と帝都を離れる日々が多いのは確かで、きっと寂しい思いをさせていたのも確かで。
帝都には元恋敵もいるわけで、疑うわけではないけれど多少なりとも『その可能性』を考えなかった、と言えば嘘になる。


(ま、俺から逃げようたって、もう無理なんだけどな)


たとえ愛想を尽かされようとも、逃げたら捕まえて絶対に離さない。捕まえて、耳に囁き、体に刻み込んで、自分から離れられないように、そう仕向ける。
それほどまでを欲している自分に、ユーリは苦笑し―――

・ローウェルか……イイな」

と、一人でニマニマしていたことは一生の秘密にしよう、と思ったとか何とか。