不意にあの日のことを思い出して、ユーリは小さく笑う。
彼女渾身の力でもって振り上げられた、それなりに重量のあるかばんがあごにヒットした時の事だ。
いやはや、実に痛かった。逃げ失せたを追いかけている間に、随分痛みは引いてはいたけれど、それでも数日は鈍く痛んでしまいが気まずそうにしていたっけ。
そんなささやかな思い出し笑いは、しかしすぐに消え、沈んだ表情にとってかわった。


(……今が感じてる痛みってのは、多分あのかばんスマッシュなんぞよりも……)


部屋を追い出されたユーリは、廊下の壁に寄りかかりながらじっと自宅の扉を見つめる。
握り締めた拳が小刻みに震えている、それをセーブしたくて何度深呼吸をしても、どうにも震えは止まらないので、やがてユーリは諦めた。




―――これは、間違いなく。自分には決して判らぬことへの、怯えだ。




運がよかったとするのなら、この日は珍しく、女性陣が臨月を迎えて身動きがとり辛くなったに会いに来ていたことだろうか。
狭い我が家で楽しく過ごしていた矢先のの破水に、夫であるユーリより早く対処したのはジュディスだった。ついでエステル、リタと続いた。
ユーリはと言うと、もうすぐ生まれる、と自覚していたのにもかかわらず、いざその時になると苦しげなの姿に動揺してしまい、それまで頭に詰め込んでいた筈の対処方法が綺麗さっぱり飛んでしまった。
リタに医者か助産婦の場所を尋ねられるまで殆どフリーズしていたのだから、情けないと自嘲する。
下町育ちゆえ、ご近所の出産やらに遭遇することは多かった。手伝うことだってあったから(勿論お産に立ち会うわけではなかったけれど)、の出産でもある程度は冷静に動けるはず、なんて思っていたのが嘘みたいだ。
当事者になるとこうも違うのかと実感せしめる程、混乱と狼狽と焦燥と不安と心配が、自信家である筈の彼を襲う。
寝台に寝かされて、きつくなってきたらしい陣痛に苦悶の表情を浮かべるの手を握る。痛みに耐えるの指には、まるでユーリの手を握りつぶそうとしているんじゃないかというほどの力が篭っていた。その力が緩み、数分の後にはまた強く握り締められる。常にない、箍が外れたような彼女の握力に、思わず眉を顰めそうになるほどの痛みを感じるけれど、自身を苛んでいるだろう激痛に比べればマシだろうとも思って、ユーリは必死にポーカーフェイスを崩さないよう努める。「俺の手ならいくらでも握りつぶしていいから、頑張れ」なんて強がった笑顔を見せると、痛みで青白い顔色のは無言 のまま、幾度となく頷いた。
―――何故か、には今の自分の笑顔がただの見栄だって見破られている気がした。





いよいよ時期が来て、ユーリは駆けつけた助産婦に自宅から追い出された。追いやられた途端、の前で何とか取り繕っていたポーカーフェイスがあっという間に崩れていく。
部屋の中から、助産婦に言われて手伝っているエステルたちの励ましの声に紛れての悲鳴が漏れてくる。それを耳にするだけで、恐ろしくて、辛くて、自然に顔が俯いていき、いつもの自分ではいられないことを自覚して、ユーリは唇をかんだ。


(あいつの一世一代の戦いの時に限って……俺は無力なんだな)


―――男である自分の身には降りかかることすらない”出産”という戦いは、下手をせずとも母子ともに命の危険に晒されるものだ。
耳に入ってくる彼女の、喉を磨り潰すような甲高い苦鳴に、思わず、もしも、を考えそうになって―――ユーリは最悪の想像を振り払うように首を振った。


(が簡単にくたばるわけがない、)


震える腕に、ぐっと力をこめる。


(あいつだってあの旅を乗り越えた、)


(最後の最後にとんでもないことやらかしたぐらい、肝だって据わってる)


そう思えば、少しだけ恐怖が薄らいだ気がした。


(そんなあいつが、ここでどうにかなるわけがねえ……信じてるから、負けんな、)


不安に苛まれて俯けていた顔を、無理やり上げて―――、







その、刹那、









産声が、微かに響いた。







 















「……お疲れ」
「ん、……頑張った、よ」


清められ、ふわふわのタオルに包まれた赤ん坊を腕に抱いたが、汗にじみ草臥れきった、けれどとても清々しい笑顔でユーリに応える。
大仕事を終え、汗だくの額に口付けると、「やだ、汚いから」と唇を尖らせるので、そのとがった唇にも軽く吸い付く。の目がびっくりして瞬くのを感じた。それから頬に、鼻の頭にも同じようにキスをして、最後にもう一度唇に触れる。それから、ごまかし切れない程潤んだ目を、に合わせた。
―――ユーリは、ただただ、感謝と幸福を伝えたかった。
無事に子を産んでくれて、ありがとう。
無事に戻ってきて、笑ってくれて、ありがとう。
声にしたくても声にならない思いを伝えたくて、ユーリは腕を伸ばして、そっと、と生まれたばかりの我が子を抱きしめる。





の髪の色をした、ユーリの瞳の色を持つ女の赤ん坊が、しょぼしょぼした目で寄り添う父親と母親を見上げていた。


 

 











この先珍しく後書きめいた蛇足
















←背景のこの手は生まれて一週間頃の赤ちゃんの写真を加工してみたというどうでもいい裏話です

多分ヒロインさんは安産型です(何がとは言わない)(私は30時間かかりました……)
数年後、ヒロインさんによく似た顔立ちの娘さんに対して金髪の幼馴染が若干錯乱しだしますが、
ユーリと、彼に似た二人目の子供(男の子)によって阻まれるようなそうでもないような。
コメディめいた展開を考えると大体フレンさんをオチに使う癖をどうにかしたい。

ユーリはなんというか、正義を貫くためとは言え、殺人を犯している故に、人一倍生命の誕生に対して慄くことがあるんじゃないかと何となく思ってます。
特赦が出されていることもありますし、それ以前に仲間たちがいるから今後安易に殺害することで解決を図ることは滅多にないと思いはしますが、無意識下で己が奪ったものの重さに動揺するのではないかな、と。殺人云々はあえて言及してませんが。
自分が出産を体験できない性別であるのも拍車をかけていそうな、そんな感じ。
なもんで、実際当事者として関わった時に自分の予想とはまったく違う反応をしてしまったんだろうな、と。(尚、ヒロインさんが旅の最後の最後にやらかしたことってのは今のところ秘密ですが、物凄く拡大解釈 しすぎた嫌いのあるリゾマータの公式&精霊絡みとだけ……)

ちなみに、陣痛の激しさやいきみ逃しの苦しさ等で、つい握り締めてしまった旦那さんの手の骨を折るのは割とあるそうです。あと産婦さんって陣痛中は、結構な割合で正気を失っています。痛みで。 幻覚も割と見ます、痛過ぎて。獣に帰ることだってあります、本能のやり取りですから。
しょうがないよね、人が人を産むんだもん。命と命のやり取りです。
並大抵じゃないのです…凄い痛いんですよ、しばらくすると痛かったことすら忘れるけど