結界の円環が浮かぶ、雲ひとつない晴れた空を雀たちが賑やかに飛びまわっている。
そろそろ昼時にさしかかろうという暖かく穏やかな空気の中、そこは様々な人でごった返していた。
貴族の家の使用人らしき姿、夕飯の材料を探す下町や市民街の主婦たちや昼飯が待ち遠しくて仕方がなかったらしい騎士なんかの姿も見受けられる。飲食店で出す料理の仕込みに勤しむ料理人や、簡素な食事を振舞う屋台の前では、その匂いにつられた人々が行列をなしていた。
帝都の台所事情を一手に引き受けている市場は今日も盛況だ。
売り子たちの威勢のいい掛け声が整備された道の両脇から降りそそぎ、うっかりその声のほうに目をやるとさあ買っていけとばかりに捕まってしまうので、目的地に着くまでは極力前だけを見るようにしている。
しかし、その目的地が一向に見えてこないので彼――ユーリ・ローウェルはこんなことなら愛犬のラピードも連れて来ればよかったと少しだけ後悔した。
ちなみにラピードはと言うと、ユーリが出かけるのとほぼ同時に下町のいずこかへひとり
(?) 出て行ったようだった。おそらくはナワバリの見回りだろう。帝都一帯のボスである彼の日課だ。
と、並んだ屋台の奥まったところ、丁度建物の影になった一角から高く澄んだ歌声が流れてきた。その歌声を聞いて、目的地は近いな、とユーリはその足を速める。
その屋台は少々ばかり立地条件の悪いところにぽつねんとあったのだが、商品自体は殆ど品切れらしく陳列台には殆ど切れ端に近い野菜がちらほらと置いてあるだけだった。どうやらそろそろ店じまいらしい。せっせとその切れ端を集めて紙袋につめていく屋台の主らしい中年の男と、売り捌いている最中に飛んだのだろう葉物のくずをせっせとホウキでかき集める同じ年頃の娘の背中が見えた。
聞こえてきた歌声は彼女のものだった。ユーリの幼馴染と言える娘は何年か前から市場の売り子の手伝いをして生計を立てていた。商売をしている間も時々歌うらしい。即興のものらしく同じ旋律で歌うことはないが、それが却って人々の足を止め客を呼ぶ。あの子は売れっ子の売り子で市場でも引く手数多なんだよ、と言っていたのは箒星の女将さんだったか。そんなことをとりとめもなく考えていたが、その思考を中断するようにユーリは娘の背中をぽん、と軽く叩いた。振り向いた娘の額に僅かに汗が滲んでいて、大分大忙しだったんだろうと察して労う。
「よっ。お疲れ、」
「あ、ユーリ」
娘――はユーリの顔を見上げると控えめに微笑んだ。
下町で育ったにしては、彼女は少し遠慮しいなところがある。それもそのはず、彼女は元々外の世界を周る行商人の子だった。行商中はずっと、大人ばかりに囲まれて暮らしていたとの事で、少し人見知りするところは今も変わっていない。
十年前のある日、血だらけの姿で下町の入り口に倒れていたのを見つけて保護したのだ。
それ以前からも度々下町に滞在することがあったとは親交があったが、保護を切欠に彼女は下町に住むようになった。母親は物心つく前に亡くなっていたそうだが、行商人である父親はどうやら彼女が保護される直前に戦争に巻き込まれて死んだらしい。当時勃発していた戦争は遠い大陸の人魔戦争と言われる人間と魔物たちの争いぐらいで、その大陸から父を亡くした彼女がどうやってこの下町にたどり着いたのか未だにわかってはいない。けれど、彼女が無事に――とは言い切れなかったけれど――生きていたことを下町の住人は喜んだものだ。勿論ユーリもその一人だった。そういやあの頃から綺麗な声で歌ってたな、と当時を思い出す。
と、売れ残りを片付け終えたらしい屋台の主が、満面の笑みを浮かべながらに紙袋を手渡した。
「ちゃん本当にお疲れさん」
「あ、お疲れ様です、今日は雇っていただいて本当に有難うございました」
受け取った袋を大事に抱え、は主に向かって深く頭を下げた。それを見た主は一層目尻を下げながら頭を上げさせる。
「その袋にお給金と、売れ残りをいくらか入れておいたからね、よかったら食べておくれよ。ほんとに助かったよ、何せこんな場所しかスペースが空いていなかったからねぇ。山ほど売れ残っちまうかとひやひやしたもんさ」
どうやら、さっきの売れ残りもの手にした紙袋につめてあるらしく、は慌てだした。
ユーリが彼女の頭の上からこっそりと紙袋を覗き込むと、相当な量の野菜が詰め込まれているのが見える。切れ端とは言え売ろうと思えば売れるものだ。成程、貰いすぎだと思ってこの慌てようなのだろう。
「そんな、働かせてもらってるだけでも有難いですし……っ」
何とかして野菜を返そうと言葉を連ねているが、主も気にしないで貰ってくれの一点張りで埒が明かない。
ただ、これは主の感謝の気持ちだ。その気持ちを無下にするのもどうか。
ユーリは軽くの背中を押しやった。怪訝そうに振り返るに、ニッと笑って見せ
「もらっとけよ。オヤジさんの感謝の気持ちだぜ?」
「そうそう、二枚目彼氏の言うとおりだって」
「かっ……!? いやいやいやユーリは彼氏じゃありませんよ!」
彼氏、という言葉にが真っ赤になる。頬を赤く染めた幼馴染を見てユーリの中の悪戯心がむくむくと育ち、ニヤリと笑うとの華奢な肩をしっかり抱き寄せてみた。
「何だよ、そんな隠すことはねぇだろ? ……もしかして照れてんのか、可愛いなぁは」
「ゆ、ゆっ、ユーリ!? 何言ってるのちょっと……!?」
「いやいや、初々しいねぇ! 彼氏もちゃんがこんなウブじゃ手を出し辛そうだなぁ」
「オヤっさんもわかるか? そうなんだよ、こいつウブ過ぎてさ、おかげで未だに何も出来やしねぇんだ」
そうぼやく真似をしながらチラリとを伺うと、真っ赤になったまま両目を見開いてユーリを見上げていた。雇ってくれた主の手前、違うと強く言い辛いんだろう。大分いっぱいいっぱいになってる模様である。そろそろ限界だろうと悟り、ユーリはの肩から手を離して、「まぁ、冗談はさておき」と話題を変えた。ほんの少し、手を離してしまったのが残念に感じたのは今のところユーリだけの秘密だ。
結局給料と一緒に野菜を受け取ることになったは、何度も何度も屋台の主に頭を下げていた。
律儀なこった、とユーリが苦笑交じりに肩をすくめると、に軽く睨まれた。
さっきの彼氏云々のことをまだ気にしているようでその頬はまだ少し赤い。相変わらず恋愛ごとに慣れていないらしい。
前に市民街でナンパされた時も助けに入るまでさっきのように真っ赤になって困っていたのを思い出す。まぁ、うろたえるが随分可愛らしかったのでよしとしよう、とユーリは実に勝手なことを考えていた。
「あんな悪ノリして、ユーリったら酷いんだから」
「ははっ、悪ぃ悪ぃ」
謝ってみたものの、実はあまり悪いと思っていないユーリは、どうやらそれに勘付いている彼女をなだめる様に頭を撫でてご機嫌をとってみる。
年齢的にはひとつしか離れていない上に成人している女性にやることではない。だがユーリは何故かの頭を撫でることが好きだった。そしても満更ではないらしく、僅かに頬を染めたまま、「仕方ないなぁ」と少しだけ呆れたように笑っている。
「まぁあれだ、お嬢さんのご機嫌を損ねたお詫びに俺が腕によりをかけてそれなりに豪華なディナーをご馳走してやろう」
芝居がかった動きで恭しく頭を下げると、は一瞬呆けて、そっと苦笑した。
「してやろう、ってお詫びなのにね?」
「その辺は気にすんな、言葉のあやって奴さ」
言いながら、彼女の荷物をそっと取り上げる。結構な重みがありそうだと思ったら案の定重かった。給料が入った袋だけ彼女の手の中に戻すと、は「ありがと」と一言呟いて袋を懐にしまいこんだ。
(……なぁユーリ、に黒髪長髪の綺麗な彼氏がいるなんていう噂が市場に広がっているんだが何か知らないか?)
(まあなんだちゃんと事情説明するから落ち着けフレン頼むから剣を置け)
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