それは、が仕事を終え岐路に着いた夕暮れ近い時間の事だった。 一瞬だった。 鎧を着込んだ二人の騎士らしき男に捕らえられて何もわからないうちに廃れた路地裏に連れ込まれ、突然どさりと投げ出される。痛い、と思う間もなく腕を捕まれ無理やり立ち上がらされ。―――そのまま、 右腕を取られて壁に押さえ込まれた。 「ふふ、ようこそ市井の歌姫……・。キミ、市場の売り子をしているね?」 西日が目を焼き、強い影で彩られた声の主の顔を見ることは適わない。だけど、その声はどこかで聞いたことがある、気がする。少しでも眩しさを軽減したくて、目を眇める。そんなにお構い無しで、影は、 「キミ、このボクのものになりなよ」 傲岸不遜な態度で、そう言い放った。 「キミみたいな卑しい下民をこのボクが可愛がってあげようって言うんだよ」 「……」 壁に縫い付けられたは、目の前の男を困惑したままに見た。ようやく、西日に焼かれた視界が回復してきて、目の前の男を遠慮がちに観察する。しっかりと濃い化粧が施された美しいけれどどこか嫌味のある風貌、ひょろりと細い体に少し不釣合いな剣を帯刀したその男は、にんまりと目を細めた。 「まだわからないのかい、君の類稀なるその美しい歌声を、このボク……アレキサンダー・フォン・キュモールが買っているんだよ? 光栄なことだとは思わないのかな……ねぇ、・」 男―――キュモールの手がゆるゆると、引きつったの頬を撫でる。まるで蛇に睨まれた蛙のように、の体はピクリとも動けない。 沈みゆく太陽が僅かに差すだけの薄暗い路地裏、その入り口にはキュモールの部下らしい騎士二人が立ち、誰も近づけまいと睨みを利かせている。勿論、腐っても騎士だけあって、ただの平民であればまず太刀打ちできるわけがない。 行き止まりで出口は塞がれ、人目はない。目の前には、ねとりと絡みつくような目でを見るキュモール。背中には、の背丈の倍近い高さの頑丈な壁。 逃げ場も、救いも、何一つない。それが今のを取り巻く状況だった。 怖い。 喉は干上がり、声帯の筋肉が戦慄き、声を出せない。どうにかして身を守りたいが、相手は腐っても騎士で男だ。護身術を最近習いだしたばかりの自分よりも力はあるだろうし、きっと剣も多少なりは使えるのだろう。目の前の男が剣を抜いたところなんて全く見たことはないけれど。そして何より、騎士たちは魔導器を支給されている。エアルに弱い体質のに術技を使われてしまえばそれで全ては終わってしまう。 抵抗する力がない、術もない、それを悟ったのは頭より体のほうが早かった。膝が笑い、自由な左腕が知らず自分の体をかき抱く。目を見開き、目の前の騎士からどうにか遠ざかろうと体に命令を出しているのに、手足がどうしてもコントロールできず、は絶望の息を漏らした。 僅かに様子が変わったを怪訝に見、そして得心がいったとキュモールは笑い、腕の拘束をといた。逃げる心配はないと判断したのだろう、事実、自由になったにもかかわらずの体は恐怖からか、杭で打ちつけられたように動けないでいる。 「ふふ、怯えているのかい? そうだね、キミ一人の命など、ボクの手に掛かれば好きに出来るもの。殺すも嬲るのも、全てね」 うっとりと胸に手を当て、舞うような優雅さをもって一回転。陶酔しきったまま、キュモールは歌うように続ける。 「たとえ、キミを殺したところで。たとえ、キミを嬲ったところで。下民のキミを処理することなんてとても、そう、とても簡単だ。……キュモール家はそれだけの力があるからね」 「……っ」 殺す、嬲る……という言葉にビクリとしたに、キュモールは愉悦を丸出しにして笑みの形に唇を歪ませた。 「でも、そうしない。ボクはそんなことをキミにするつもりはないよ。ボク専用の歌姫になるのならば。ボクはキミを気に入ったからね。愛らしい小鳥をかわいがるように、飼ってあげる。キミの一生かけて稼いだお金ですら買えないような豪華で美しいドレスも沢山着せてあげる。外に出られないように足枷はつけるけど、美しい調度品の中で夢のような生活をさせてあげる。毎晩毎晩、このボクが自らキミの全てを慈しんであげるよ、ねぇ」 「……そ、そん、なの、い」 「ああ……それとも」 追い詰めた娘の、精一杯の拒絶の言葉を遮り、キュモールは唇が触れ合ってしまいそうになるほど顔を近づけた。きつい香水の香りが酩酊感を誘い、は体が傾ぎそうになるのを必死に堪える。 「―――それとも、今ここでキミを抱いてしまえば、キミは大人しくボクのものになるのかな? ああさぞ美しい声で啼いてくれるんだろうね」 「ひッ―――」 喉が小さく空気を漏らした、その刹那。 キュモールの気持ち悪いほどほっそりとした手が、指が。の服の胸元をびりり、と裂いた。 その音が、の呪縛を乱暴に解いた。恐怖と混乱で闇雲に腕を振り回し、目の前の脅威から少しでも逃げようとする。 「痛……っ!!」 振り回していた腕がキュモールの顔に当たった。痛みに耐えるキュモールの顔が、見る見るうちに怒りに染まってゆく。目をきつく吊り上げ狂気じみた憎悪を顔に貼り付けたキュモールが、逃げ出そうとしていたの首を捕らえたかと思うとそのまま力任せに壁に押し付け、苦悶の表情を浮かべるの喉を握りつぶそうと力を込める。 「この……ボクが優しくしてやってたのに付け上がって!! 下民風情がこのボクを拒絶するだと……!? 四の五の言わずに大人しくボクのものになっちゃえよ!!!」 金切り声でキュモールが叫ぶその背後で、複数の男の悲鳴があがった。 忌々しげに首だけ後ろに巡らせたキュモールがそれと気づく前に、黒い影がの首を握りつぶそうとしていたキュモールの腕を引き剥がし、崩れ落ちそうになっているを背中に庇う。 「待たせた、」 「ゆ、ぅ……り……」 普段のシニカルなものじゃない―――見た相手を安心させるような優しい笑顔を見せて、の幼馴染はキュモールからが見えないように立ちふさがった。 涙が出てくる。それを必死に拭いながら、は今やっと思い出したように浅く呼吸を繰り返した。ユーリが、助けに、来てくれた。それだけで足から力が抜けて、はその場にへたり込む。 「無事……じゃねぇな、―――遅くなった」 「だ、大丈夫、ちょっと破けただけで……」 の手が胸元の裂けた部分を押さえているのをちらりと見て、ユーリが歯痒そうに呟く。慌てたの否定を、黒の青年は喉元に視線を向けることで止めた。顔を傷つけられたことで激昂したキュモールがの喉を全力で握り潰そうとした、その手形がくっきりと焼きついている。殺意までいかなくとも、明確な害意をぶつけられた、それ。もう少し割って入るのが遅かったなら、は二度と、歌うどころか話すことも出来なくなっていただろう。それはも判っていたことだった。だから言葉を続けられず、自分を抱きしめるようにして……小さく「怖かった」と囁くしかなかった。 そんなをみて、ユーリの手が労るように柔らかい手つきでの髪を撫でた。その手が離れるのと同時に、ユーリの相貌から笑顔が消え、代わりに静かな、けれど強烈な怒りが深いアメジストの瞳に灯る。 「貴様、ユーリ・ローウェル……! ふん、愚かな下民のクセに、ボクたちの邪魔しないでくれるかい!?」 「お断りだね」 黒い闖入者に一瞬顔を引きつらせ、しかしキュモールは馬鹿にした表情で鼻を鳴らした。それをユーリがすげなく一蹴すると、唇を震わせ「この愚劣な下民がッ」と声を搾り出す。 「こいつは俺のかわいい幼馴染なんでね、おまえみたいな趣味の悪いナルシストに触らせてやるつもりなんざかけらもないんだ、諦めてくれ」 尚も挑発するように続けるユーリに、キュモールがヒステリックに何かを叫ぼうとした時だった。 「キュモール隊長、―――フレン小隊、参上しました」 新しい影が路地の入り口に射し込んだ。夕日がその金色の髪を微かに照らし、カツカツ、と足音が路地の壁に反射する。 やがてぴたり、と足を止めた。キュモールの前にを背に庇ったユーリ、背後には激しい憤怒を滲ませたフレンに挟まれ、キュモールが俄かに喚き出す。 けれど、の耳には入ってこない。フレンが、ちらりとに視線を向けたからだ。それを受け止めたは戸惑い、僅かに首を傾げる。―――ほんの一瞬、意味を図りかねたのだ。 (今の、フレンの目はまるで……) まるで、無力感に染まってしまった謝罪の念しかない。 「く、……何だい、何なんだい! このキュモール様に楯突こうって言うのか、下民ども!!」 後退るキュモールに、普段の彼からは想像もできないような―――冷徹で険しい視線を投げて、フレンは重々しく口を開いた。 「ご報告、いたします。路地入り口にて昏倒していたキュモール隊二名は、……現在我が小隊配下が介抱しております。また、同キュモール隊騎士の証言により―――」 ぎり、と強く。苦いものを噛み潰したように、きつく眉を寄せた苦渋の表情で、フレンが一度言葉を切った。 キュモールはその様子を見て悟ったのだろう。―――その場にいる誰をも蔑む笑いを濃い化粧の乗った顔に貼り付ける。ユーリもまた、気づいた。悔しさと怒りで瞳に暗い色が差し、爪が食い込むほど手を握り締め、フレンの言葉を、ただ待っていた。 「証言により―――、騎士二名に対する傷害、及び公務執行妨害で、ユーリ・ローウェルを逮捕します」 ―――キュモールの高い哄笑が路地裏を支配する。 どうして、と声にならない問いがの口を突いて出る。―――だけど、悟った。悟ってしまった。 これが、現状の帝国法なのだ。 名を冠した大隊を率いるキュモールと小隊長でしかないフレンでは、権力という絶対の差があった。 たとえがユーリの無実とキュモールの凶行を訴え、その言葉をフレンが突きつけたとしても、無かった事にされてしまう。それを許されているのが、今の帝国であり、今の法だった。 弱者と強者を分け隔てなく守り裁くものであるはずの法は、強者が一方的に弱者を甚振るためのツールに成り下がっていた。 (これが、こんなのが……、法、なの……) 悔しい。悔しくて、涙が途切れることなく流れ出した。それすらも悔しくて、は唇をぐっとかみ締める。ぷつり、と赤い血が浮いてくるのにも構わず。 「馬鹿、噛むなよ。血ぃ出てんじゃねーか」 「だって、……だって!」 助けてくれただけじゃないか。怖かったのだ、キュモールに何をされてしまうのか、殺されるのではないか、いいようにおもちゃにされるのではないか、そう、怖くて怖くて仕方なかったをその中から救い上げてくれたのはユーリだったのだ。なのに何故彼が悪者にされている? 何故彼が逮捕されるのだ、何故拘束されなきゃならない! そう叫び出したくてたまらない、けど最後の理性が押し止める。”叫んでは駄目だ”、と。叫ぶことを禁止された声が、涙になって次々溢れて止まらない。 ぼたぼたと頬を伝い落ちる涙は唇の血の玉と混じり、ふやけた赤に染まる。痛々しく顔を歪めて声もなく涙を流すの前にユーリはしゃがみ込み、重みで形を失った涙と血の混じる雫を親指で拭い取り、それを口元に運ぶ。目を見開くに、不思議な味だな、とからかう様に笑いかけて。 「ま、ちょっと厄介になってくるよ……待ってろ、ちゃんと戻るから」 頭を抱き寄せ、耳元で囁く。髪留めが外れかけてばらけたの髪を撫でてから立ち上がり、キュモールの横をすり抜けた。フレンの背後から現れた小隊の騎士に連行されすれ違う寸前。 「馬鹿野郎……惚れてる女、泣かしてんじゃねぇよ……」 ユーリは呻いた。すまない、と口を動かすことなく告げるフレンに、「……後は頼む」とだけ力なく残してユーリが路地裏から消える。 お互いに判っている。そして恐らく、だって判っている。だからこそ叫び出したいのを我慢したのだ。 今のままではどうしようもないことも、ユーリと、そしてフレンを守るのにも、実はこれが現状の最善手だったことも。しかし、胸を占めるのは空恐ろしいほどの無力感、キュモールの凶行を知りながら断罪することも出来ない怒りと、を助けたはずのユーリを罪人と呼ばねばならない悔しさだけで。 「フレン……!!」 よろよろと立ち上がりふらつく足でフレンの元へ駆け寄ろうとするを、ユーリの逮捕に気を良くしたキュモールが両腕を伸ばし捕まえようとして、それをフレンが体を割り入らせて阻んだ。面食らったキュモールをよそに、フレンはを腕に閉じ込めたまますかさず距離をとる。 鋭くキュモールを睨むフレンの全身から滲み出る怒りが二度と触らせるつもりなどないと雄弁に語っていた。だって、二度と触られたくなかった。今しがたまた捕まりそうになったせいで一度は収まった恐怖がすっかり蘇り、フレンの胸に必死に縋りついている。細い体に回した腕に伝わる震えでそれを感じ取ったフレンが、抱き寄せる力を強めることで大丈夫、の意味を込める。そしてますます強くキュモールをねめつけた。それに気圧されたキュモールが「何だい、下賎な出のたかが小隊長の分際で!」と癇癪を起こすが、フレンはそれを気にする素振りすら見せず、怒りを押し殺した声で低く呟く。 「彼女は……嬢は、私の幼馴染です。今回逮捕されたユーリ・ローウェルもそうです」 「だから何だって言うのさ!? その女はボクの」 「嬢は、彼の逮捕に精神的な痛手を負っております」 ものになるんだ、と続けようとしたキュモールの言葉をフレンがピシャリと遮った。 「また、彼女は一連の事件における唯一の参考人に値します……本来ならば、彼女を騎士団詰め所へ招致し手厚く治療、保護した上で証言を取るべきでは、ありますが。……犯人、とされる―――ユーリ・ローウェルは既に捕縛、確保されています。その事実と嬢の心の傷に鑑みて今回は」 「―――ボクと取引しようっていうのかい」 「いえ、そう言ったつもりは」 即座に否定するフレンだったが、……実際その通り取引を持ちかけていた。 確かにキュモール家の力を使えば今回の事件はなかったことにされる。だが力を使った事実は残り、その事実は後々キュモール家が貴族同士のやり取りをする上で間違いなく弱点になるのだ。また、事件にならずともが証言すれば一連の報告は騎士団長であるアレクセイ・ディノイアに報告が行くだろう。たとえ騎士団外ではなかったことにされようが、キュモールに大なり小なり何らかの処分が下されるのも確かなことで、いずれは騎士団長に上り詰めるつもりでいるキュモール自身にとっても小さくない傷になる。……経歴と言うものは決して軽くない。活躍した経歴があったからこそ、フレン自身も21歳と言う若さで平民の出ながら小隊長の位に就けたのだから。 ……その傷をつけずに済ませてやる、その代わりには触れるな。―――乱暴に言えば、そう持ちかけたことになる。 本当ならば、本当に何のしがらみもないのであれば。 全力で、目の前の貴族の男を殴り飛ばしたい。フレンにとって一番綺麗で大事な存在を身勝手に手に入れようとした、あえなく傷つけようとした事にどれほどの怒りを覚えているのか、助けを乞わせる程思い知らせてやりたい。でもそれをしてしまえば、フレンが数々の理不尽を我慢し散々努力してようやく手に入れてきたもの全てがなくなってしまうのだ。ひいては、腐敗しきった法を正す機会すら失ってしまう。それだけは、どうしても捨てるわけに行かない。 「ふん……」 忌々しげに鼻を鳴らし、けれどその忌々しいものの筆頭である元騎士の青年を逮捕したことで少なからず鬱憤が晴れていたのも確かであったキュモールは、やがて。 フレンとを一瞥し、完全に日が没して街灯のついた大通りへ出て行った。一言、 「今日はいいよ、引いてあげる。……ふふ、また今度。諦めないよ」 言い残して。 「ユーリは、僕が掛け合ってすぐ釈放の手続きを取るよ」 微かに震えるの手を取って歩き出したフレンが、ぽつりとそう呟いた。 街灯の少ない下町では、日が暮れるとあっという間に足元が覚束なくなる。ただでさえ半ばショック状態のを放っておけなかったのだろう、フレンは極めて優しく、ゆっくりとを誘うように歩いた。時たま、彼女が何かに蹴躓きそうになる度にそっと抱きとめ、あるいは腕を引き支えながら、普段かかる倍の時間をかけて、ようやくの自宅に辿りつく。 「ありがとう、フレン、送ってくれて」 自宅の前で、やっと体のこわばりが解けた。なんとか動くようになった頬の筋肉が不自然ながらゆるゆると笑みを象り、フレンを見上げる、と、無言のフレンに腕を引かれ強く抱きしめられた。突然の事に喉がひくつく。を閉じ込める腕が僅かに震えているのに気づいて、ああフレンは今涙も流さずに悔しさで泣いているのだろうと、ただそれだけを感じていた。普段は頼りがいある筈の背中にそっと腕を回してそれからぎゅう、と力を込めた。
|