「ぶへぇ、酷い目にあった……」
バウルに休憩を、という名目で久しぶりに海を走るフィエルティア号。
水嫌いのラピードと一緒に船室で過ごしていると、海水を頭から引っ被ったらしいレイヴンさんが羽織の裾を絞りながら飛び込んできた。
慌てて立ち上がり、しまってあるバスタオルを引っ張り出して手渡すと、「ありがとちゃん」と笑って頭をガシガシと手荒く拭き出す。
「風邪引きそうだし、着替えたほうが良さそうですね」
全身濡れ鼠の姿を眺めてそう勧めると、レイヴンさんもそのつもりだったらしくて細かく首肯して、その場で羽織を脱ぎ出した。よっぽど冷たい海水だったらしく小刻みにカタカタと震えていて、気になった私は船室の窓から外を窺う。ちらりと垣間見た海には大小さまざまの流氷が浮かんでいて、これは寒いはずだと思わず呻った。ゾフェル氷刃海付近なのかここ。外に出る順番でなくってよかった……。
そう安堵しながらレイヴンさんを振り返る。上半身裸の姿がそこにあって、その体の精悍さを目にしてしまった私は思わず顔を赤くして目を逸らした。
「あー……おっさんのたくましい体見ちゃった?」
無造作に結んだ髪を下ろしたレイヴンさんは、ほんの僅かに悩みそれから少し茶化した素振りでゆるく笑う。まともに櫛を通してる気配のない黒髪が海水に濡れて力なく、しかし塩気のせいか微かにパリリと固まり垂れていた。
……こうして見ると、騎士服姿の整えられた髪型を少し思い出して、何だか妙な気持ちになる。
そのまま何となく視線を動かし、目に入ったのは左胸の赤い光。
あの光は、レイヴンさんの命の源だ。
自分を死人と嘲った一行最年長の彼は、今こそ自分自身のために生きていてくれるのだろうか。
不意にそんなことを考えて、とことこ、とレイヴンさんに歩み寄った。レイヴンさんは不思議そうに笑顔を作りながら、「どったの?」と尋ねる。私は意を決して、
「胸、触ってもいいですか」
レイヴンさんの顔を見上げ、それだけ言った。
「え、……あ、っと、………」
わがままを言っている気はする。間違いなく。つい最近まで忌々しいと思っていた物を好き好んで他人に触らせていい気分かといえば、微妙な気分だろう。
私の頼みは、確実にレイヴンさんに動揺をもたらした。笑顔が戸惑いの色に染まった。……けれど拒絶だとか嫌悪だとかという雰囲気はそこにはない。それに縋るようにじ、とレイヴンさんを見つめると、
「ちゃんも物好きねぇ」
ふにゃり、と相好を崩してレイヴンさんが私の右手を取った。そのまま、左胸に光る魔導器にそっとのせる。髪の毛から海水がぽたりと落ちて、指と指の間に流れてきた。
鼓動のように一定のリズムで明滅するそれは不思議と人肌と変わらない温もりをもっていて。
―――その奥から、とくんとくん、と心音が聞こえたような気がした。
その音そのものが錯覚なのはわかってる。けれど、確かに生きているのだと実感したら何だか安心してしまって、私は万感の思いでこぼした。
私を真っ直ぐ見ながら、目の前で恥ずかしそうに、照れたように笑うこの人が、
「生きてくれて、よかった」
そんなこと凄く優しい声で呟くから、俺の手は心臓代わりを愛おしそうに撫で出したちゃんを思わず力いっぱい抱きしめそうになった。が、ここは船室、誰がここに入ってくるかわからないこの状況でそんなことをしたら確実に簀巻きにされて極寒の海に叩き落されそうな気がした。
でも、それでも。
目の前の彼女を閉じ込めたくて、その熱が欲しくて。
意識に反してちゃんの体に回してしまいそうな腕を、何とかおしとどめる。
そんな俺の気も露知らず、心底嬉しそうに微笑まれて俺は思わず天井を仰いだ。
(ああもう)
こんなに幸せでいいのかな、俺。
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