わたしの父は、商人だった。 正確には、少し違うように思える。依頼主(今考えると依頼主というよりは上司だったのかもしれない)が手に入れた高価な品々を、帝都の貴族達に売り捌くのが仕事だった。いわゆるディーラーというものだったんだろう。生活自体は苦しくもないが潤ってもいなかったと思う。今のわたしでは考えも及ばないほどの金額を動かしていたであろうに、わたしたち父子に定住の地がなかったからだ。 家を構えるよりは流浪の民(ジプシー)の様にさすらう、それが父の仕事の性質だったと思う。どれほどに高額のものを売ることが出来たとしても、決められた報酬以外を受け取ることはなかった。いや、受け取ることが出来なかったのか。それはわたしにはわからない。 父の仕事についていった時(というか、それは最早日常の暮らしだった)の記憶は、あまり大きくない幌馬車の中から見る景色や、父の馬車を魔物たちから守っていた屈強な戦士たちの姿。 そして、数ヶ月に一度帝都へ取引のために立ち寄る度、必ず預けられていた下町に住む優しい人たちと、同じ年頃の金の髪の男の子と黒い髪の男の子と過ごした楽しい日々。 父の仕事の都合、町から町、大陸から大陸を行脚し大人たちに囲まれる事が殆どで、人見知りも激しいわたしにとって、同年代の子供と過ごすことなどそれこそ皆無だった。 だからこそ、ふたりの少年との時間はキラキラ光っていた。 太陽が空の真ん中で輝くときはふたりにくっついて下町の中ではしゃぎ、月が静かに昇る頃には旅の合間に覚えた歌を歌いながら二人が知らない外の町の様子を話した。 そうやって数日を過ごし、また旅立つ日が近づいたときは二人に会えなくなるのが寂しくて悲しくてよくべそをかいたものだった。 そんなわたしに、ふたりは「また下町に来たら一緒に遊ぼう」と指切りしてくれた。その約束は破られることなく、父が仕事で帝都を訪れるたびに、わたしは彼らとの思い出を増やすことになった。ここに来れば二人は笑顔でわたしを迎えてくれる、別れのときに同じように指切りをすれば約束は果たされるのだと、それからのわたしは別れのときに泣く事がなくなった。 そんな生活が数年続き、……その時もいつもと同じように下町に預けられていたわたしは、夕焼けの光の中、貴族街から帰ってきた父に飛びついた。おかえりなさい! と若干はしゃいだ声をあげて。 父はわたしの頭を優しく撫でてくれていたがその表情は少し翳りがあった。父は言った。 「お父さんは仕事で別の大陸に行くことになった。その大陸では戦争が起きていて危ないからお前を連れてはいけないんだ。いい子だからここでお父さんの迎えを待っておいで」 それは、父の愛情だった。いつもわたしを一緒に連れていた(たとえ家がない所為だとしても)父も、戦争に巻き込まれて命を落としかねない所へ子供を連れて行くわけにはいかないと決断したのだろうと、今ならすんなり理解できる。 だけど、当時のわたしはまだ十歳の子供だった。そんな父の思いを理解など出来やしなかった。 生まれて初めて父に置いていかれる事になると即座にわかったわたしは、そんなの嫌だ連れて行ってと駄々をこねた。泣きに泣いた。父がどれだけ優しい声で諭しても、癇癪を起こしたわたしが言うことを聞くわけもなく。 そうして、初めて手を上げられる。パチン、と軽い破裂音に似た音が自分の頬からして。頬を打たれた痛みよりも先に驚きがたって、わたしは父から逃げ出した。 どこをどう逃げたのか覚えていない。気がついたら路地裏でしゃがみこんでいたわたしの前に二人の少年がいた。……きっと一部始終を見ていたのだろう。探したよ、と息を弾ませて金の少年が手を差し伸べてくれた。酷いとーちゃんだな、と黒い少年はわたしを慰めるように憤ってくれた。 そう、彼らも子供だったのだ。わたしも彼らも、父の言葉を意地悪なものだとしか取れなかった。それを幼さゆえの罪と呼ぶのか、無知ゆえの純真と呼ぶのか、未だに判らないけれど。そうして小さな悪巧みが生まれた。 「今のうちに内緒で積荷の中に隠れてしまえばいい」。怒られるかもしれないけど、ついて行きたいならそれしかない。 こっそりと積荷の中にスペースを作り外からは一見荷物だけしか見えないように仕掛け、わたしは馬車に乗り込んだ。二人も手伝ってくれた。金の少年はやや渋々だったように思うけれど、それでも「君のためだからね」と笑ってくれた。見つかるわけにはいかないから、夜の闇にまぎれたわたしたちはその場で別れた。いつものように、指切りをして。 悪巧みは半分成功した。 帝都を発って数時間後わたしは父に見つかってしまったのだ。こっぴどく怒られたけれど、最後には父は笑ってわたしがついてくることを許してくれた。 本当なら、護衛の戦士の一人にわたしを預けて帝都に連れ帰ることも出来たけれど、父はそうしなかった。だから半分の成功。 全てを話してそう笑うと、本当に悪い子だな、そう苦笑しながらわたしの頭を撫でる父の傷だらけの手がとても暖かかった。 それからはいつもと変わらない旅路だった。 大人たちに囲まれ一人馬車の中で本を読み、たまに護身術を教えてもらうと称して護衛の戦士とじゃれたり、その流れで魔導器(ブラスティア)をつけさせて貰ったものの使い方が判らなくて嬢ちゃんには才能ないのかな等と言われたり、立ち寄った港町で聞いた歌を教えてもらったり。 海の上で見る星空に感動して眠れなくなって、遠い帝都の下町で同じように空を見上げているかもしれない少年たちに思いを馳せてみたり。 本当に、何ら、変わらなかったのだ。 山の上の異種族の町が今回の目的地だった。 そこは空気が妙にぴりぴりとしていたのを覚えている。わたしと同じ人も異種族の大人たちも皆物々しい鎧を着込み、武器を手にしていた。今にも斬り合いが始まりそうで、山道を越えて辛うじて乗りつけることが出来た馬車の中でわたしは震えていた。 危ないから、という父の言葉を遅まきながら理解したのもそのときだ。 町に到着してからずっと険しい顔をしたままの父は、やはりここからすぐ離れたかったのだろう。 いつもより若干粗く仕事をこなし、すぐにでも町を出ようと手綱を手に取った。その瞬間だった。 ゴワリ、と空気が質量と熱を持った。直後、衝撃。 気がつけば馬車は半壊しひっくり返っていた。 ひとり荷台から放り投げられたわたしは、周りの人たちが血塗れで倒れているのを呆然と眺めていた。 自分も血だらけになっている事に気づいたのはその数瞬後で、ひたすら怖くなってカラカラと空回りし続ける車輪の残骸のほうに顔を向けた。馬車のほうを向けば父がいる、そう信じて。 けれど、父はいなかった。 かわりにそこにあったのは、黒こげになった人型の何か。そしてそれを踏み潰す大きな獣の足。 父がいなかった。どこだろう、と半ば恐怖心すら麻痺したわたしはキョロキョロとあたりを見回すけれど、やはり父の姿はなかった。 逃げてしまったのか、さっきの爆発で飛ばされてしまったのか。 ……考えたくない。 考えたくない、考えたくなかった。考えてしまったら認めてしまう。 認めたくなかった、認めたくなど、なかったのだ。 獣の足の下、黒焦げの人の形のそれ、その僅かに残った、肌の色をした部分、手。 それに、父と同じ傷が、あった、なんて、認めるわけにいかなかった。認めるわけに、認めることなど、できる、わけが……!! 『大罪を忘れ盟約を反故にせし、業深き人間共よ』 黒焦げの人型を足に敷いたその獣が、口を開いた。人の言葉を話す魔物なんて、聞いたこともなかった。 体の震えが止まらない。酷く寒い、だけど酷く熱い。瞬きが出来ない、ただ、人型とその獣に目を向けることしか出来なかった。 獣の足に力が入る。ぐしゃり、と黒い消し炭が潰れた。 父と同じ傷だらけの手を持った、それが、 「う、ぁ、あああああああああああああああああああああああぁああ」 その叫びは、わたしのものだったのか。 次第に真っ黒に染まりゆく意識の片隅に、風にたなびく銀色の何かを焼き付けて、わたしはそのまま―― 死んだ、と思っていたのに、どこかから、トクントクン、と鼓動が聞こえる。それが自分の心臓の音だと気がつくと、真っ黒だった視界と意識が一気に明るさを取り戻した。 「…気がついたかっ!?」 「よかった……!!」 見知った金の髪と黒の髪が目に飛び込んできた。 目を赤くして、涙を貯めたその顔は心底安堵したようだったけれどわたしはそれが不思議で仕方がなかった。 何故ふたりがいるのだろう。 ここはあの山の町ではないのか、とベッドに寝かされていたらしいわたしは微かに首を動かしてあたりを見た。 すると目に映るものは下町に預けられているときに自分にあてがわれた部屋の調度品(というほど立派なものではないけれど)で、どうやらあの山の上から遥か遠い帝都の下町に運ばれてきたのだとわかった。 その途端、部屋の扉が勢いよく開いて、わたしの面倒を見てくれていたおじいさんが白衣を着た人を連れて飛び込んできたと思うと、二人を部屋の外に押し出した。 突然のことに頭がついていかなかったけれど、おじいさんが連れてきた白衣の人が医者だとわかり、ああ診察されるのかとようやく思い至った。子供とはいえ、女の子だと気を遣ってくれたんだろう。 体を診てもらっている間、おじいさんはたくさん話してくれた。 一週間ほど前に下町の入り口でわたしが一人血塗れで倒れていたこと、それを発見したのがふたりだったこと、泣きながらふたりが下町の人々に助けを求めてきたこと、傷こそ見た目ほど大したことはなかったけれどその代わりに酷い高熱だったこと、ずっと意識を失っており、その間に医者に診せてみたけれど治癒術も薬も効かなかったこと、万が一のことを覚悟したほうがいいと言われた二人が泣きじゃくりながら自分たちを責めていたこと。 そこまで話をしてくれたところで、医者はそろそろ疲れてしまうだろうと会話を打ち切った。 おじいさんはすまんなぁ、と眉と目じりを下げて謝り、診察を終えた医者を見送りに部屋を出る。 入れ替わりに二人が戻ってきた。手にした水差しを再び横になったわたしに与えてくれる。 ずいぶん久しぶりに喉を通ったらしい水分に咽ると、慌てた二人が代わりばんこに背中をさすってくれた。 目が覚めたばかりだしあまり疲れさせてはダメだ、と言い含められていたらしく、彼らはまた後で来るよとすぐに部屋を後にした。 それを見届けると、急速な眠気に襲われた。眠気に逆らうだけの体力などなくて、わたしは目を閉じた。 「……夢、……かぁ」 またあの頃の夢を見た。 むくりとベッドから起き上がり、カーテンを開けると外に広がるのは夜明け前の町並み。 あの事件が元で、わたしは帝都に一部屋ながら自分の家を持つに至った。 勿論、最初の数年は下町の大人たちが保護者として面倒を見てくれていたけれど、働けるようになった数年前からは自立することが出来た。 わたしの事情を知る気の優しい下町の皆はそれはもうこっ酷く心配してくれたものだが、黒髪の青年の「本人が言ってるんだ、こいつが大事だったらむしろ信じてやれよ」というその一言で今は落ち着いた。 それでも金の髪の青年は「何かあったらすぐに周りに助けを求めるんだよ」と過保護気味なコメントをくれたが。 あれから彼らとわたしは成長し、それぞれの道を探り出している。 黒髪の青年と金の髪の青年は、帝国を変えると意気込み騎士団へ入団することになった。わたしはというと、市民街の市場で物売りを手伝いながらお金を少しずつ貯めている。 誰にも話してないけれど、いずれ、父の没したあの地へ花を手向けに行くつもりだ。 結界に守られたこの街――帝都ザーフィアスを出て。 父が死したあの日、後に人魔戦争と名付けられる戦争の傷跡残るあの地――テムザ山へと。 はじまりのゆめ
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