生ぬるい風、漂う土埃と血の匂い。周囲を埋め尽くす群衆の雄叫び、悲鳴、断末魔の叫び。抜けるような青空の下に広がる、地獄のような光景。
 ――自分が何故そんなところにいるのか理解が出来なかった。
 理解出来ないまま、ぐるりと首を巡らせる。骨のような、虫の脚のような、とにかく気色悪いものを背中から生やした鎧武者と切り結ぶ長い髪の美丈夫、数体の化け物を一薙ぎで打ち倒す花魁のように美しい姿の人影、それから、それから。真後ろを振り向こうとして、その音が聞こえた。



 ピキ。



 罅が入るような、軽くて、不快な音だった。
 嫌だ、とても、物凄く、とてつもなく嫌だ。それでも確かめなくちゃならない。それが私の役目だから。逃げたくなる自分を叱咤しながら、恐る恐る振り向く。
 ――果たしてそこには。



 地面に膝をつき、ゆらりと傾ぐ細身の少年の背中があって。



「この、俺が――」


 折れたかよ……っ


 掠れた声。
 薄らいでいく足元に、ぱたりと落ちた抜身の短刀。刃が欠け、刀身に細い罅が行き渡ってボロボロになっているそれは、いつも自分を支えてくれる男前な少年のものではなかったか。


「うそ」


 嘘、ねえ、そんなはず、


 けれども目の前で消えゆく少年がゆるゆると緩慢にこちらを振り返り、擦過傷で赤く染まった頬をじわじわ動かして何かを呟こうとして、けれどそれもままならず、ふうっと崩れるように力尽き、ただ一振りの短刀だけが――







「い、やああ、やげん、やげ――…………っ」



 がばりと起き上がる。それまで目の当たりにしていた光景との落差に思わずあたりを見回せば、畳が敷かれたこぢんまりした部屋の壁が見えた。その隅に押しのけるように片しただけのちゃぶ台、その上に乗る報告用の端末と、寝る前に飲んで片付け忘れたマグカップ――ここが本丸の自分の部屋であることに気づくのに数秒かかってしまった。
 掛け布団を握りしめる指は力が入りすぎて真っ白で、手を離しても指先がぶるぶると小刻みに震えてみっともないことこの上なかった。――あんな、酷い悪夢を見てしまったせいか。
 引きつる呼吸を何とか落ち着けようと胸に手を当てると、常にない速さで鼓動を刻む心臓を認識する。汗をかきすぎて寝間着がじっとりと肌に張り付いて気持ち悪い。


「大将どうした!?」


 と、当の薬研が血相を変え、障子を開けて飛び込んでくる。どうしてこんなタイミングで、と疑問を覚えたところで、今日の近侍は薬研だったことを思い出した。
 思いの外過保護だった刀達によって、私が自分の部屋で就寝している間もすぐに駆けつけられるようにと、自室隣に近侍の控室なるものを作られてしまい、戦わせるだけじゃなく守りまで任せてしまうことに恐縮してしまったのは記憶に新しい。
 しかし、図らずも寝起きの悲鳴で呼んでしまうことになるとは。隣に筒抜けになるほど大きな悲鳴をあげてしまったということなのか。何だそれみっともない。
 急に沸き上がってくるなんとも言えない恥ずかしさと、夢に見た内容の恐ろしさとで薬研の問いに反応できず俯いていると、すかさず近づいてきた薬研が膝を折って顔を窺ってきた。額にぺったり張り付いた髪をかき分ける薬研の指先の暖かさにほっとしていると、藤色の目がすっと眇められる。


「顔色わりぃな。寝汗もひでえ。だが、具合が悪いというよりは…………何か怖い夢でも見たか?」


 図星を突かれて言葉を失った。絶句した後、いや、うんあはは、なんて誤魔化すように笑っていると、額から離れた手が背中に回って、あれ、と思う間もなく薬研の腕の中に引き寄せられる。
 (外見年齢だけは)年下の少年に抱きしめられる形になった私はがっちがちに固まった。細いのに見た目以上にしっかりした、薬研の体。久方ぶりに感じた人の熱にびっくりして、ひゅっと息を吸った途端に薬草の青い匂いが淡く鼻をくすぐる。夢なんじゃないかと思っていたのに、熱と匂いを五感で感じたせいで、薬研に抱きしめられている事実を否応なしに実感させられた。
 予想外にも程がある。大丈夫か、薬研ったら見た目はどう足掻いても私より年下の男の子だから本丸じゃなかったら間違いなく逮捕されるんじゃないか。おまわりさん誤解です、彼こう見えても推定年齢七百才オーバーです。なんてどうでもいいことばっかり考えていると、


「誤魔化したりなんかしなくていいぜ、あんたに無理されるとこっちが辛い」


 そんな、もの思わしげな声がしてぱっと顔を上げると、薬研は眉根を寄せて苦笑していた。……わざと関係ないことを考えていたのは、バレていたみたいだ。


「…………ごめん」
「ん、なんか謝るようなことしたのか大将?」
「やぁ、うん……薬研は心配してくれたのに、ごまかしちゃったし」
「はは、ま、確かに」


 正直に打ち明けよう。突然の抱擁に酷く混乱したこと。でも同時に、薬研の暖かさが、薬研がここにいてくれることを証明してくれたからすごく安心もしたこと。
 とんでもない悪夢を見たこと。夢で薬研が折れてしまって、それがどうしようもなく悲しくて怖くて悔しくて思わず叫んでしまったこと。ああだから俺の名前を呼んでたんだな、と納得されてしまい、恥ずかしくて忘れてほしいと頼んでみると、とたんにクスリと笑われた。


「大将のお願いだからきいてやりたいところなんだが、こりゃちょっと無理だなぁ」
「…………何でよ」
「そりゃあ、俺が折れる夢を見ただけで、あんな酷い有様になってくれた大将を忘れたくないからさ」


 失うことを恐れるほどに俺を大切に思ってくれてるってことだろう? 男前な薬研には珍しい、どこかうっとりとした眼差しでこちらをそっと射抜いてくる。その珍しさにどぎまぎしながらも、言われたことは事実に相違なかったのでこっくり頷いた。


「それが嬉しいからに決まってるじゃあねえか」


 薬研は本当に嬉しそうに、薄く頬を染めてはにかみ、そのままこつんと額を合わせてきた。上目遣いにこちらを覗きこんでくる薬研の表情は香り立つような色気を纏っていて、見つめられるこちらが思わず生唾を飲み込んでしまうほどだった。鏡を見なくてもきっと今の私は真っ赤になってるだろう。頬が熱い。見つめられて恥ずかしいのに、目が離せない。


「なぁ大将、俺はそんな簡単に壊れたりなんぞしない。多少傷付くことがあっても、必ず、大将のもとに帰ってくる。……夢は、夢だ。だから安心してくれ」


 姿に似合わぬ深い声で、ゆっくりと、私の全身に染み渡らせるかのように告げられる。
 きっと薬研だってわかってる、簡単には壊れない、でも絶対に壊れないわけではないってことくらいは、戦いの中に身を置く刀だからこそ嫌というほどわかっているだろう。それくらい、平和ボケした時代の人間であった私もわかっている。
 それでも、今は、あれは他愛のない夢だったと、気にする必要のない小さな不安の具現化にすぎないと、そう言ってくれる薬研の言葉に安堵したかった。


「……うん、そうだね」


 たった一言だけ薬研に返す。それで満足したのか薬研もひとつ頷いて、ようやく体が離された。
途端にひやり冷たい空気に触れて、随分温めてもらったらしいことを知る。……なんだろう、微妙に心許ないというか、寂しいというか。もうちょっとくっついてても良かったのになーとか、そんな思いが顔に出ていたのだろうか。薬研が再び距離を詰めて、いたずらっぽく笑った。


「なんだ大将、俺のぬくもりが恋しいのか? ……なんて」
「うん」


 なんてな、と続くはずだっただろう語尾にわざと被せるように首肯すると、薬研は目を見開いて動かなくなった。しまった、困らせてしまったのかも知れない。いや困っているに違いない。せっかく慰めてくれた薬研に申し訳ないことをした。両手をパタパタ振りながら私は弁明を図った。


「あぁごめん。冗談だから気にしないで」
「…………ああうん、そうだな、冗談だよな。……理性を試されてるのかと思ったぜ……」
「まぁ実際なんか寂しくってもう少し薬研と抱き合ってたいなとは思ったけど」
「……………………大将…………やっぱり試されてんのかこれは……」


 きまり悪そうに頭を掻きながら薬研がため息をつく。何とも言いがたい、複雑そうな顔で呟いた言葉は声の小ささ故に殆ど聞こえなかったので聞き返してみたら「こっちのことだから気にすんな」とバッサリいかれた。
まぁ、多分あんまり詮索されたくないのだろう。それほど深刻という感じでもないし、何かあったらきっと打ち明けてくれる筈。
 もそもそと布団に潜り込みながら、またも深い溜息を落とした薬研を見ていると、ちゃぶ台に置きっぱなしだったマグカップを手にしたところでこちらの視線に気づいたらしい。珍しく眉尻を下げて困ったように笑いながら、障子を静かに開けた。


「……じゃあおやすみ、大将」
「おやすみ薬研。ありがとね」


 ひらりと手を振る薬研の背中を見送ると同時に襲う眠気にぼんやりと身を委ねる。障子のすぐ外で、薬研が三度深い溜息をついていたことなどつゆ知らず、あっという間に意識が落ちていった。