ぼたり。
 大げさではなく響いた音を、その場にいた全員が耳にして、音源らしき方を振り向いて固まった。「いやしくじったしくじった」と傷だらけになりながらもころころと笑っていた三日月の口も、まるで錆びたように動かない。
 視線の先で、呑気に笑っているのが常な筈の、今の主である女が、ぼたぼたと涙を零していた。
 最初は呆然と見開いていた目が徐々にくしゃりと細まり、ぽかんと開いていた口はあっという間にへの字に歪んだかと思うと「う、」押し殺したような呻きが漏れた。その声で、止まっていた刀達の時間が動き出す。


「あるじさま」


 幼い声がぐずぐずと鼻を鳴らす主にかけられた。今剣だった。いつもならば「どしたの今剣、おやつ食べたいの? それとも遊びのお誘い?」なんてニコニコ……否、ニヤニヤしながらでれでれと今剣の目線に合わせて座り込むだろうに、彼女は今、無言のままただまっすぐ腕を伸ばして、今剣に手のひらを向けた。
 途端に今剣が悲しげに顔を歪める。恐らく、自分は拒絶されたのだと思ったのだ。それを主も感じたのだろう。「ちがうの」うっ、ぐぅ、と喉を鳴らしながら声を絞り出す。


「ごめんね、すぐ、なきやむから、ちょっとだけ」


 白衣びゃくえの袖で必死に涙を拭うが、次々落ちる涙の量に追いつかない。
 どんどん水分を吸って重たくなる白衣を、とうとう手放して、涙を拭くことを諦めた主は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を刀達に向けた。


「ごめん、ごめんなさい、私が泣いたって意味がない、のに、わかってた、の、に、あなた方をただ戦場に送り出すだけの私が、泣いたって、なんの禊ぎにもなりやしないのに。私が、判断を違えて、あなた方に怪我をさせることもあるんだって、それがどれだけ重大なことなのか、わかってるつもりで、全然、わかってなかった……!」


 えづきながら、切れ切れにそんな言葉を繋げて、必死に泣き止もうと努力しているらしいが、残念なことにその努力は実る気配もない。


「主殿……」


 誰もが言葉に詰まる。それはこの場にいる誰よりも年長であろう三日月も例外ではなかった。
 普段はからりと、どこか乾いたような明るさでもって本丸を取り仕切る審神者だ。己の怪我を見ても「耄碌したんじゃないよね?」位で済まされるだろうな等と勝手に思い込んでいたから尚更だった。
 それが、実際はどうだ。年頃の女にあるまじき酷い有様で、必死に喉を絞って泣き声を漏らすまいと、己を律しながら自分の覚悟の足りなさを謝罪したのだ。
 ――今日この時までこの女を主として戴く刀達は誰一人としてまともな傷を負ってこなかったのだから、彼女の受ける衝撃は余程だったのだろう。
 これまでの幸運と、今日彼女が改めた覚悟を思いながら、円い頬をころりと滑り落ちる雫を目で追う。やがて顎を伝い、彼女の装束に音もなく落ちて吸い込まれていく涙の粒。




(ああ、なんと美しい――触れてみたい)




 脳裏によぎったその欲は、恐らく生まれてはじめて覚えたものだった。


(触れてみたい、と。あの涙に――いや、それだけではないのか)


 胸中をたっぷりと満たす感情そのものが信じられず、三日月は軽く目を瞠る。それとほぼ同時に、どうしてか、三日月の胸の奥から臓腑がたてるやかましい音が響きだした。もしや、という疑念が走る。人の体を得て、初めて感じたそれの正体を、長らく生きてきた三日月は知識として知っていた。
 だが、それをたとえ人の体を手に入れたとは言え一振りの刀である自分の身に起ころうとは思いもよらず、しかしそれを不愉快と思うこともなく。
むしろ、不思議なことに心地よいとさえ思い始める己を自覚した。


(ああこれが、)


 ひとつだけまばたきをして、必死な形相の主に手をのばそうとして、血に塗れた己を思い出したけれど、知ったことではなかった。血と埃に汚れた狩衣で、主の体を覆い隠すように抱きしめてやると、存外に華奢な体がびくりと震えた。泣いて興奮している所為か、ほこほこと暖かい体温を感じつつも、
「……謝ることではないぞ」そっと耳元で囁いてやる。


「主よ、俺達は刀であり戦っているのだ。敵と切り結ぶことがあれば傷つき血を流すのは、ただの道理だよ」
「う、」


 主の顔が更に歪む。


「だがそれを気にするなとは言わん」


 そろりと主の頬に指を這わせて目尻を拭う。指先に滴る雫を眩しく思いながら、傷だらけの顔で三日月は微笑んだ。主の体を解放して周囲の刀達を見渡しながら


「主がそうやって、俺達が傷付く事に涙を流すのは、我らを大事に思ってくれていることに他ならんのだろう?」
「そ、そんなの、当たり前じゃない」


 確認するように尋ねた言葉は即座に肯定される。その速さに三日月は目を細めた。


 「だからだよ。俺達は主とともに戦い、その中で傷付くことも厭わん。勿論痛いのは嫌ではあるが……それでも、主とともに在りたい。主の力になりたい。ここにいる誰もがそう思っているさ。あの大倶利伽羅や山姥切であろうともな」


 そう断言して、両手で柔らかく彼女の頬を包み込み、目線を合わせながら問う。


「なあ主、どうか俺たちを心配してくれ。同時に、誰一人折れずに必ず生きて帰ってくると信じてくれんか。そんな主だからこそ、俺達は 必ず主のもとへ戻り、そして主についてゆこう」


 主は一瞬目を見開いて、それから再び顔をくしゃりと歪める。「う、う」と再び唸り声をあげながら、ただ只管にうなずき続ける娘の表情は、先程まで悲壮感漂うものではなく。


「……あ、ありがとう……」


 涙声の感謝に、「でもやっぱりごめんねええええもう絶対怪我させないからああああ」という大号泣が続いた。
 さっきまでの我慢を重ねたものではなく、まるで幼い子供のような泣き方。三日月がゆったりとした動作で主から離れると途端に、固唾を呑んで見守っていた今剣と五虎退が感極まったのか主に駆け寄りひし、としがみついた。


「主様ぁぁあ」
「うわああああ今剣ぃい五虎退いいぃうわあああああんん」


 今剣も五虎退もすっかりなきべそをかいていて、そんな幼い二人の体をぎゅうと抱きしめ返して同じように泣く女を、三日月は静かに見つめる。


「……三日月殿、そろそろ手入を致しましょう」


 事の成り行きを静かに見守っていた一期一振に促され、「そうだな」と頷いて手入部屋へ足を向けた。


「み、三日月!」


 その背に湿った声がかけられた。首だけ後ろに巡らせると、仄かに頬を赤く染めた審神者がほんの少し照れくさそうに、視線を彷徨わせて、


「手入、いってらっしゃい……ありがとね」
「…………うむ、行ってくる」


 顔から出るあらゆる液体でぐちゃぐちゃなものの、何の陰りもない純粋な笑顔に送られて、三日月は手入部屋へ赴く。その、道中。



「……あの笑顔、良いな」



 天下五剣で一番美しいとされる評判に違わぬ美貌をほのかに赤く染め、勝手ににやける口元をつい隠しながら三日月は独りごちる。怪我をした体が今更のように痛み出したが、それよりもなによりも、胸の奥が酷く痛いような心地がして、ほんの少し、詰めていたらしい息を吐きだした。



 ――あの笑顔をまた見たい。
 それも、自分だけに向けられたものを。
 涙も、笑顔も、あの娘の熱も、全てを手に入れたい。



 そんな独占欲を感じながら、(ああこれが、)と、またそう思った。






(恋というものか)