誰もいない我が家の中で、腕に抱いているのは想い人。 その人は僅かに頬を染め、けれど不思議そうにじっと自分を見上げてくるというこのシチュエーション。 考えようによっては据え膳なこの現状に、しかし土井半助は思った。 何がどうしてこうなった。 ***** ***** ***** 爆弾発言はいつも突然である。 「土井先生、今度こそお嫁さんお貰いになったんですねぇ」 「………は?」 「いえ、だからお嫁さん」 息子に用事があったらしい乱太郎の母の、帰り際の一言に、以前の悪夢が蘇る。 あの花房牧之介があろうことか半助の嫁を名乗り、勝手に自宅に居座った上に子供が出来たと酷いホラを吹聴して大家さんから金をせびるという、今思い出してもはらわたが煮えくり返って蒸発しそうな勢いの黒歴史を。よもやそれが再び起きたというのか。 「そうですか……また人の知らないところで嫁を名乗る輩がいるわけですか……ふ、ふふふふ」 怒りのあまり真っ黒いオーラを漂わせ、押し殺した声で不気味に笑う。今度こそ同じ芸当が出来なくなるようにどう料理してやろうか、なんて普段からは考えられない恐ろしさだった。 乱太郎の母上と別れた半助は怒りを隠さない足取りで、は組の教室にいるであろう同居人を迎えに行った。無論一緒に自宅へ戻って自称嫁を成敗するためだ。 が、同居人の反応は冷めたものだった。 「行きませんよ、おれ。今日委員会の当番なんでお一人で行ってください」 荷物を一纏めにしながら、半助を振り返ることもなく事も無げに言い切ったきり丸を怒鳴りつけそうになって、しかし委員会の当番であるということと嫁騒動が二回目であることをごちゃ混ぜミックスした結果、低く呻る様に「仕方ない、わかった」、そう言い残してぐるりと反転した。 全力疾走すること暫し。ちょっとばててジョギングに様変わりすることまた暫し。少し体力回復して再び全力疾走することさらに暫し。自宅の長屋に帰り着いて、ゼエゼエ息を整えていると隣の家からおばちゃんがのっそりと出てきた。 「おや半助、どうしたんだいそんなバテバテで。そんなんで帰ってきたんじゃ嫁さんが心配しちまうよ」 「おば、ちゃん……その、私の嫁ってのが、今どこにいるか……ご存知ですか………っ」 うすら寒い何かを発する半助に、いつも物怖じしないおばちゃんが珍しく体を引きながら「さっき家に戻ったようだよ」と答えた。半助はありがとうございます、と冷え切った礼を告げ自宅に足を踏み入れる。流石のおばちゃんも、今の半助には触らないほうがいいと感じたのかそのまま自分の家に戻っていった。 さて足音も立てず静かに自宅に入り込んだ半助は、自称嫁の姿をくまなく探した。 そう大して広くもない我が家だったので、目標はあっさりと見つかった。 自称嫁は入り口に背を向けて一心不乱に箒を掃いている。どうやら掃除をしてくれているらしい、嫁と言う身分を偽るのにはうってつけだろう。 そこまでしたいのかこの野郎、なんて腹が立ってきて、半助は一気に距離をつめ背後から首に腕を回し、その喉元に刃を突きつけようとして 「ひゃあ!!」 というかわいらしい悲鳴をあげる腕の中の自称嫁が、自分の想像していた人物(牧之介である)と違うことに気づき、それでも警戒を解かないままその顔を窺って 「ごめんなさいすみません勘弁してください降参しますから斬らないでえええ」 「な、え……さん!?」 パニックに陥ったが必死に許しを請うているのを見とめて思わず声をあげた。 その声に、「土井先生ですか?」と混乱から回復したが安堵の息をつく。一方半助は、予想を裏切る自称嫁の正体に手にした刀を取り落としかけ、慌てて拾い掴んだ。怪我をさせずにすんだとホッとしたのも束の間、腕の中にを閉じ込めている状態を自覚して、ぎしりと体が緊張する。 「あ、あのぅ、土井先生……?」 自分を抱えたまま身動ぎすらしなくなった半助を不審に思ったのだろう、そろりと背後を見て、(傍目には)呆然とだけどまっすぐに自分を見る半助の眼差しに、がかぁっと頬を染めた。 ―――そして冒頭に戻る。 換気のためか普段閉めっぱなしの木窓は開けられていて、外から近所の生活音とともに外の空気がゆったりと流れてくる。その外気に乗って、自分の部屋の匂いに混じるの焚いたらしい微かな花の香が鼻を掠めて、その甘さにくらくらした。 好いた人の香が自分の領域の匂いと混じるというのは、どことなく、あんまり顔を出さない男の意識を刺激するというか、要するにかなり変な興奮を覚えかけたのだったが、 「ぷへくしょっ」 外の空気が流れることで舞い上がった我が家の埃で鼻を刺激されたらしいのくしゃみで、半助は一遍にさめた。と同時に、を抱きこんでいた腕から慌てて解放し「すすすすすみませんいきなり拘束したりして!!」と何度も頭を下げる。もまた、「こちらこそすみません勝手にお邪魔して!」と同じように頭を下げ、その謝罪を耳にした半助がハタと気付いた。 「それですよ」 「へ?」 突然の指摘にが首をかしげた。ああもう何してもこの娘さんは可愛いなぁと惚れた欲目を存分に発揮しながらそれをひた隠しつつ、冷静に半助は続ける。 「何でさんが、私の嫁……ってことになってるんです? 今日私が帰って来たのも、乱太郎のお母上に私が結婚した等と言われてびっくりして真偽を確かめようと思ったからで……」 本当は、その自称嫁がかつての悪夢の元凶・花房牧之介と思い込んで二度と舐めくさった真似が出来ないようにしてやろうと息巻いてきた訳だがそれを言ったら間違いなく怯えられると思ったので、とりあえず伏せておく。 するとが、「それがですねぇ」と苦笑した。その後少し考える素振りを見せてから、 「怒らないであげてくださいね」 と人差し指を唇の前に立ててこくり、とまた首をかしげた。その所作の可愛らしさに惚けかけた半助が何度も必死に頷くと、安心したように笑って、実は、と言葉をつなげた。 「だいぶん前の事なんですけど、きりちゃんと一緒にこっちまでお出かけしたんです」 立ち話するのもなんだから、と半助が円座を勧めるとはその前にお茶淹れてきます、と土間に下りてゆく。どうやらきり丸が何がどこにあるのかを細かく教えていたようだ。惑うことなく湯のみと薬缶を引っ張り出して湯を焚き出す姿を見て、半助は嫁さんがいたら本当にこんな感じなんだろうなぁその嫁さんがさんだったら人生バラ色なんだけどなぁ、なんてこっそり鼻の下を伸ばしたりしつつ。 さて、の話に戻ると。 …………正確には、が学園長のお遣いで外出した時、ばったりと出会ったらしい。懐に余裕のあったはお遣いも済ませたことだしおやつでも一緒に食べようかときり丸と甘味屋に向かったらしいのだが、その時に丁度自宅の前を通りかかったそうだ。その時だ。 「えーと……あんまりにも家主がいないということで、大家さんとご近所の小母さま方がですね……土井先生のおうちから荷物をごっそりと運び出していまして……」 「はぁっ!?」 どことなく気まずそうに目を逸らしながら半笑いのが告げた言葉に、半助が目を剥いた。お茶を口に含んでいたら間違いなくに噴きかけていた。完璧に初耳である。 の話からすれば、きり丸もその現場を見ているのに全く報告のほの字もなかった。きり丸め、帰ったら拳骨だ、と心に決めかけて、しかし自宅の現状を見るに普段と変わらぬ様相で半助はおや、と息を呑み、に先を話すように促した。 「ああ、はい。まぁいったん家財道具を外に出して大掃除をしようと思ったらしいんですね、でもほら、お仕事の関係上何も知らない人たちに勝手をされたら大変かも、なんて思って、慌ててきりちゃんと一緒に止めに行ったんですけど」 その際に、連れ立っていたの事を聞かれたきり丸が咄嗟に「土井先生の嫁さんです!」とでまかせを口にした。で、それがまかり通って、家財道具を外に並び立てるのをやめる代わりにが家の掃除をすることになり、今に至ったという。 「月に何度かはこっちに出てくる用事があるので、そのついでにお掃除にお邪魔してて、今回もそれで……」 「そういうわけでしたか……知らない間にご迷惑をおかけしたみたいで、まったくきり丸の奴め……」 半助は難しい顔で呻りながら、心のうちで、でかしたきり丸帰ったら食堂の定食3日分贈呈だ! と今度こそ心に決めていた。咄嗟の嘘でもを半助の嫁だと言い広めて、しかもそれを周囲が納得しているわけだから、実際に恋仲ではないけれどに懸想している身としては少々心浮かれるものがある。 しかし、はどうなんだろう。その場しのぎの嘘で半助の嫁にされて、町に出てくるたび毎度毎度掃除に来なくてはならなくなった彼女にとっては、余計な仕事が一つ増えたことに相違ない。 しかも、仕事場の同僚と勝手に夫婦扱いにされて、本当は嫌がっているのかもしれない。割と感情が顔に出やすいとは言え、仕事上の付き合いの好き嫌い程度は笑顔の裏に隠せるはずだ。そう思い始めると、嫁さん騒動に浮かれていた自分の気持ちがじわじわ沈下してゆく。 「あの、本当にきりちゃんのこと怒らないであげてくださいね? あの時はそうでもしないといけなかったと思うし、それにわたし、ひとっつも迷惑だなんて思ってないですから」 だんだんと暗くなってゆく半助の心情を察したのかそうでないのか、が慌てて言葉を足した。表立って嫌がられなかっただけマシか、と半助が半ば脱力した笑いを浮かべかけて、頬を赤く染めてくしゃりと顔を歪めるにドキリとする。 「む、むしろ、わたしのほうが迷惑かけてるんじゃないかな、って! あの、きりちゃんから、土井先生に好きな人がいるって聞いちゃってて、あの、こんな偽のお嫁さんなんていたら、土井先生の好きな人に誤解されちゃうんじゃないかなとか、わたしなんかじゃきっと勝てないなって、ほんと迷惑おかけして! う、あの帰り、ます、ご迷惑かけてすみませんでした」 言っていることが的を得なくなるほど混乱してきたらしいの目にじわりと涙が浮かんだように見えて、どこか逃げるように立ち上がろうとしたの手を、半助は反射的に掴んだ。聞き捨ててはならない言葉を聴いたような気がしたのだ。 軽く引っ張られた形になって体勢を崩したの体を抱きとめて、そのまま優しく抱きしめる。真っ赤になった耳をのぞかせたまま、腕の中で硬直してしまった彼女に向けて、ついさっき落ち込みかけた時とは裏腹な感情を口元に乗せて、半助は笑った。 ***** ***** ***** 「ねーきりちゃん?」 「あー?」 委員会の当番と半助に言っておきながら、他のは組の良い子たちに混じってサッカーに興じるきり丸に乱太郎が尋ねる。級友の口ぶりが何だかおかしい事に気付いていたのだ。 「さっきさぁ、土井先生怒ってたよねぇ。ニセのお嫁さんがどうとかって……ほんとに行かなくてよかったの?」 「いいんだよ、むしろおれが行っちゃお邪魔だしな」 「何々それどういうこと?」 面食らった乱太郎の疑問に何も答えず、きり丸はいくらか大人びた仕草で肩をすくめた。こんな騒動でも作らなきゃ、どっからどう見ても思い合ってるくせにどうにも遠慮が強すぎて進展しないんだぜ、土井先生もさんも変に奥手なんだもんな、なんてめんどくさいんだろう、と子供ながらに思う。 それから、そんなじれったい大人ふたりの背を押してやった子供は、いつかバイトの手伝いで貸しを返してもらおうとにんまり笑った。 ほんものになってほしいおよめさんのおはなし
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