ああ、



今夜もお月さんが綺麗だ。











明日には、ふたり













ここに来てから、もう随分経った。
わたしの生まれた時代から遡ること何百年という世界に、わたしは随分溶け込めたと思う。
便利さからは程遠い。よくよく考えれば、衛生面だって比べるまでもない。
それでもわたしはここが好きになり、気がつけばその不便さも何もかもに慣れる事が出来た。
最初は読めなかった崩された文字もすらすら読めるし、書くことだって出来るようになった。
人って慣れる生き物だよな、なんてこっそり思っている。


ふと、左の手首に目を落とした。


もう相当経つというのに、未だに正確なときを刻む腕時計。
バンドは多少傷んでいるけど、留める分にはまだまだ大丈夫だし。
腕から外して軽く一、二度振れば、ねじ式のこの時計は半永久的に時を刻んでいくことだろう。



今はこれが、わたしが未来から来た唯一つの証し。



その未来から来たわたしが、明日にはこの時代の人のもとに嫁ぐ、なんて。
随分愉快な運命の悪戯だと思う。


父さんも母さんも、まさか娘が室町時代にタイムスリップした挙句、そこで結婚することになってるなんて思いやしないわな……




……なんだか妙に憂鬱な気がする。月を見上げてため息をついた。








「……、起きているかい?」

コンコン、と躊躇いがちなノックに振り向くと。
部屋の入り口には、頭巾だけをとった忍び装束姿の、明日から夫となるその人がいたわけで。

「……半助さん」
「入っていいかな?」
「ん」

頷くと、邪魔するよと静かにすぐ隣に腰を下ろした。
青白い月光に照らされて、その顔色もいくらか青白い。

「お疲れさま、半助さん。テストの採点大変だったでしょ」

労いの言葉と一緒に白湯を渡すと、ありがとうと微笑んで

「まったく、祝言の前日だってのにあいつらにゃ困ったもんだ」

相変わらず点数が視力検査並みだからなぁ、と難しい顔を作って白湯を一飲み。でもすぐに笑顔になる。

「それでも普段よりは点数がいいんだ、……喜ばそうとしてくれたのかな。特にきり丸の奴は頑張ってたようだし」
「じゃあ褒めてあげなきゃ」

釣られてわたしもくすくすと笑った。「そうだな、」と小さく頷いた半助さんに、ゆっくりと引き寄せられる。
細身で少し骨ばっているこの人の身体は、酷く力強いのに恐ろしいほど優しい。

「……半助さん暖かいね」

ぽす、とその肩に頭を預けてつぶやく。その言葉に半助さんの返事はないけれど、その手は優しくわたしの髪を撫でてくれていて。
心が安らいでいく、感覚。この人と触れあっていれば、どれほどの辛いことがあっても全て溶かしてくれる、そんな感覚に誘われる。
ゆらゆらと心が凪いで……一人でいるときに感じてた憂鬱が、少しだけ緩和されていく。





それと同時に……どうしようもなく、泣きたくなった。





悲しいとか、そういう簡単な感情じゃない。ただ色んな思いが重なって撹拌されて、大きな渦のようになって。
とにかく何が何だかわからない感情がわたしを支配しているみたいで。


半助さんは、本当に聡い人だ。忍者だから、じゃなくてきっと半助さん自体がとても聡いのだ思う。
―――きっと今も、何かを感じ取ったのかな。
壊れ物を扱うように、優しくしっかりとわたしの体を抱きしめてくれて。わたしは半助さんの体温に包まれて、静かに目を閉じた。

どれほどそのまま温もりを感じていたのか。


「なぁ、
「うん?」
「やっぱり寂しいかい?」


問われた意味がわからなかったけれど、その視線はわたしの腕時計に注がれていて。
―――わたしの境遇を指して聞いたんだ、と気がついた。

「寂しいわけじゃないよ」

喉の奥で小さく笑う。
確かにこの時代にわたしと血を同じくする人はいない。そういう意味で言えばわたしは孤独なんだけれど。
わたしにはこの忍術学園という居場所があり、沢山の教職員の人々や生徒の皆がいる。祝言を挙げると聞いて修行の旅から帰って来たおじいさまもいる。
何より、こんなわたしを愛してくれる人がいる。―――それで寂しいわけがないのに。

混沌とした思いが寂寥でも哀切でもない、複雑怪奇な感情に変化を遂げただけだと告げると、

「そうか……私はまたてっきり、君がかぐや姫のように「帰りたい」って泣くんじゃないかとひやひやしたよ」

あんまり熱心に月を見ているから。
その言葉にわたしは軽く噴出してしまった。

「笑うなよ、本当にそう思ってしまったんだから」

片眉だけ器用に下げて、半助さんは苦笑する。



―――あぁ、これって俗に言うマリッジ・ブルーってものだったのかも。
なんて不意に気がついたりしながら、わたしは目を細めて



「半助さん」
「ん?」
「大好き」



「私もだよ、―――愛してる」





月の光は暖かくも冷たくも在らず、ただわたしたちに降り注いでいた。














不思議と落ち着かないとか、悲しいわけでもないのに涙が出てきそうになるとか、
普段と同じことをして過ごしているのに変に憂鬱だとか、
この話では結婚直前ということになっていますが
立場の変化や故郷からの出立など、精神的・現実的問わず劇的に変わる前日っていうのは
いっそ面白いくらいに感覚がおかしくなったりします。
わたしなんかだと育ちが東京で嫁いだ先が近畿だったりするんで、
明日からは両親や兄弟、友達とも気軽に会えたり出来なくなるのかー、と
何故か逆に落ち着いてしまってましたが
……今考えると静かに凹んでいただけかも知れませんが。