失礼します、という声を受け振り向いた直後

「うわぁああぁああぁさん何ですかそれー!?」

保健委員長、善法寺伊作は突拍子もない悲鳴をあげた。






  深  爪








保健室の入り口にぽつねんと立ち尽くすの左手が真っ赤に染まっている。
人差し指からまだ血が流れ出ているにも関わらず、


「あ、伊作くんこんにちはー」


等と本人は至って暢気に挨拶する始末。


「こんにちはー、じゃないでしょう!! どうしたんですかその指は!?」


真っ青になって慌てて救急箱を引っ張り出す。は平気そうにしているが、見ているほうにしてみれば正直ショック映像にしか過ぎない。
出血量の多さも半端じゃなく、一体何が原因なのかと尋ねると


「それがねぇ、ついクセで深爪しちゃって」


左手で頭をかこうとして直前で気づいたようで、手を下ろす。その指先からぽた、と血が落ちた。


「……深爪?」
「そうなのよ」


あっけらかんと笑い出すの手をとりまじまじと指先を眺めると、確かに爪の端から赤がじわりと染み出してきている。


「どうしてまた深爪しただけでここまで酷いことになるかなー…」
「深く切りすぎた爪を引っ張ったら、根っこから抜けちゃったのよねー」


しょっちゅう同じ事やってるんだけど今回はちょっと酷いかな? と続けるに伊作は軽く眩暈を覚え、


「……引き抜いちゃダメですよ、まったく…」


深々とため息をついて、救急箱を開けた。
先ずは止血が先決だが、余計な血が皮膚の上で乾いているせいか少々やりにくい。


「とりあえず、手拭きますよ」
「はーい」


水に浸した布巾を血まみれのの手に当てる。軽くふき取ると白かった布巾が茶けた赤に染まり、代わりにの手は白さを取り戻す。




(……ほっそりして、綺麗な手だなぁ…)




布巾を持つ自分の手と、別の手でゆるく持ち上げているの手。
の方がいくつも年上だけれど、手の大きさも指の長さも自分のほうが上で。
苦無や手裏剣、刀等、数々の武器を握り続けてきた伊作の指や手のひらは、随分とごつごつとしている。
そんな手で目の前の女性の綺麗で華奢な手を取るなんて、何だか恥ずかしくもあり。
伊作はその恥ずかしさを紛らわすつもりで、しっかりと。布巾で何度も何度も、の手を拭き続ける。角質の溝に入り込んだ血の跡ひとつも逃さないように。
そうして取り戻されていくの白魚のような指先に灯る赤い膨らみが、不意に酷く鮮やかに見えた。


「…………」


白の中の赤。それに引き寄せられる視線。
手にしているのは仄かに思いを募らせている人の、柔らかな手。






―――魅入られる、というのはこういうことなのかな、とぼんやり考える。





「え」


驚きを織り交ぜたの声が、何故か…どこか遠くから聞こえたような気がした。


ゆったりとした動作での手を引いて。
熱に浮かされているような目で、伊作はその指先に咲いた赤い血の花に唇を寄せる。




「……ッ!? ちょ…いさ…っ」


やめて、との喉を突いた言葉は、だけど声にはならない。
柔らかい唇で、はむと指を咥えられ丹念に指先を吸い上げられる。
窄められた舌でチロチロと傷口を舐められ、はたまらず擦れた声をあげた。
―――指を舐め上げるたびにびくりと震える体に、ようやく気が付いたのか。


「……ッ、」


言葉を詰まらせ、けれど次の瞬間無礼な事をしたと謝ろうと口を開き、―――の真っ赤になって俯いた顔を見て再び思考が停止する。



いつもは快活な彼女の、少女のように頬を赤らめるその表情なんて初めて見るもので。
見蕩れそうになったものの、何故か(さんを落ち着かせてあげなきゃ)という使命に駆られた伊作は、一、二度悟られないように深呼吸してから


「驚かせてすみません、今のは止血なんです」


と、にっこりと(少なくとも伊作自身はそのつもりで)微笑んでみた。ちょっと無理がある。……自分でもそう思った。
に反応はない。ぴくりとも動かず、ただただ深爪をした手を胸元で握り締めているままで、二人しかいない保健室に気まずい空気が流れる。
窓からは、低学年の忍たまたちが元気にはしゃぐ声が聞こえてくるが、それすらこのやりきれないムードを増長しているだけにしか過ぎなかった。


(あああ……やっぱりダメか……)


いくら年上とはいえ、うら若い女性にいきなり無礼千万なことを仕出かした。
しかも、伊作自身が制御できなかった彼女に対する無意識の欲望のせいで、だ。
精神修行が足りない、とかそういった次元ですらないような気がしてきて、伊作は顔を歪めた。


「そ、そうだよねっ」


いきなりが声をあげた。呆気にとられていると、――まだ頬が赤いままではあるが――普段の彼女の笑顔が視界に飛び込んでくる。


「急でびっくりしちゃったわよー、治療しますの一言くらい欲しいじゃない、今度はお願いねっ?」
「はっ、はいそうですよね…!気をつけます、うん」


そこからは、表面上は二人とも普段どおりのノリだった。
文次郎のクマが会計委員会の徹夜明けの所為で今日は一段と凄かった、
しんべヱと喜三太が仙蔵の居場所を聞いてきたので教えたら一刻ほど経ってから仙蔵に物凄い剣幕で怒鳴られた、
塹壕に落ちた留三郎が塹壕を掘っていた小平太と喧嘩を始めて山田先生に叱られていた、
長次がきり丸と返却期限が過ぎた本の督促に周っている、だの何だの。
お互いが今日見たもの聞いたものをとり止めもなく喋り、その間にも伊作はの指に包帯を巻いていく。
元々たいした傷ではなく、またさっきの"治療"でちゃっかり血も止まっていたらしい。
非常にあっさりと処置を終えると、は「そろそろ戻るね」と席を立つ。


「もうあんまり深爪しないように気をつけてくださいよ」
「ん、善処します」


かたり、と保健室の戸が閉まった。
途端。



「……〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!」



手の甲を鼻に押し当てるようにしながら、伊作は床にへたり込んだ。
我ながらよくぞここまで平静を保てたものだ、と熱くてたまらない顔をぱちぱち叩く。
直後、唇にの指の感触が蘇り伊作は頭をぶんぶんと振り続け。


「……こんなんで、これからさんとまともに顔合わせられるかな……」

(ていうか、今夜ちゃんと寝られるかな……)

不運だか幸運だか判らない悩みを載せた特大のため息が、保健室に零れた。







「あんなに真っ赤な顔で治療なんて言われたって信じられるわけないじゃないのよぅ…」
(これから伊作くんとまともに話せるのかな……)


同じような憂鬱を持って、が再び赤くなった頬を押さえていたのは、また別のお話。