締め切っていた窓をうっすら開けると、その隙間から雨のにおいがするりと入り込んでくる。
耳に届く音はしと、しと、と。静かで、不規則だけどどこか落ち着かされる。

わたしは雨の日が好きだった。



庭へと目を向ける。長屋の軒先に植えられた紫陽花は、数日前から咲き始めていた。
その薄紫に色づいた紫陽花のがくの上に、屋根から伝う雫がぽつんと落ちては跳ねて、
まるで踊るように揺れる。
もうすぐ梅雨なんだなぁ、としみじみ思いながら紫陽花のダンスに目を奪われていると。



「―――さん?」



穏やかに声をかけられて、視線を向けた先に土井先生がいつもの忍び装束で立っていた。
さすがホンモノの忍者なだけある。ずぶの素人のわたしじゃ気配のけの字も感じられませんでした。
といった感じに驚いていたのが伝わったようで、人のいい土井先生は「驚かせちゃいましたか」と頭巾越しに頭を掻いている。

「すみません。どうも気配に鈍くて、派手に驚いちゃうみたいで」
「いやそんな謝らないでください、貴方は忍びではないんですし……こちらこそそのあたりの配慮が足りませんでした」

二人して何故か頭を下げあって。
持ち上げた視線がかち合い、同時に軽く噴出した。



折角だし土井先生とお茶でもしようかと部屋に誘い入れたら、何やら先生はほんの少し顔を赤らめて
「……お邪魔します」
と、見事な小声で呟いた。聞かれちゃまずい発言ではないような…、と首を傾げているとやっぱりどこかぎこちない動きで用意した円座に腰を下ろす。
お茶とお茶請けの干菓子を出して勧めると、いただきます…とまるで斜堂先生のようなか細さ。

…もしかして嫌だったのかなぁ。無理に呼び入れちゃったかなぁ。
不安になって

「先生、もしかしてお嫌でした?」
「え!? あ、いや違いますよ! ただその…」

緊張してしまって…、と俯いてしまわれた。
……緊張って。つい変な顔になってしまったであろうわたしは、不意に気がついた。

そう言えば、土井先生と長い時間二人きりでお話したことってあまりない。
いつもは組のみんなに囲まれていたり、山田先生がいらしたり、わたしが新野先生のところへ向かうのですぐ別れたり…と、
ご一緒することがあまりないのが最近の日常だったりしてたわけで。

そこまで考えて。なんだか、もったいない感じがした。


――――もっと土井先生とお話できる時間があればいいのに。








レイニー
     ・
      レイニー










予定していた上級生の授業は、急な雨のせいで中止になってしまった。
取り扱う予定だった火薬が強力なものである反面雨に弱いものだったせいだ。
これで午後一杯、私の予定は丸々つぶれてしまったわけで。

雨の日はあまり好きじゃない。



仕方無しに、自室へと戻ろうと長屋へ向かう。無駄にあいたこの時間で、は組用の抜き打ちテストでもこさえてやろうかと思った。
少々八つ当たり気味か、と自嘲する。今日の授業は新型の火薬を使う予定だったので教職にある立場の私でも楽しみにしていたのだ。
―――どうしようも出来ない天候に腹を立てるなんて、子供のようだ。

罠だらけの忍たま長屋を抜け教職員の長屋へ着いたところで、ふと中庭に目を向けると小さな花を群がらせる薄紫の紫陽花が目に入った。
その紫陽花越しに、小袖姿の一人の女性。その姿はあまりにも美しく、私は見とれた。

穏やかな面持ちで紫陽花を見遣るその姿は、いっそ恐ろしいぐらいに浮世離れしていて。
もしも自分に絵の心得があったなら、即座に筆をとっているだろうほどの果敢無げさが漂っている。

―――急に、怖くなった。
彼女がこのまま。……瞬き一つでもしてしまったら、幻のように掻き消えてしまわないか、と。



「―――さん?」



少しでも、声は震えなかっただろうか。冷静さを微塵も含んではいなかったが、

「あれ、土井先生」

驚きを多分に含んだ彼女――さんの表情に、私はこっそりと安堵の息をついた。


よかったらお茶ご一緒しませんか、と問われて一も二もなく誘いに乗ったものの―――、うら若い女性と一つの部屋に二人きり。
しかも、(気付かれていないけど)思いを寄せているさんと。
その状況に気が付いて体が知らずギクリと強張った。微かに顔が熱くなる。
どうぞ、と出された円座に腰を下ろすだけでも体が変に硬いせいでぎこちない。流石におかしいと思ったらしく、
「先生、もしかしてお嫌でした?」
と眉根をきゅ、と寄せて不安そうに聞かれて慌てて否定して。
つい、
「緊張してしまって…」
本音を漏らしてしまった。居た堪れなくなって俯いてしまう自分が情けない。
今まで二人きりで話す機会なんてあまりなくて、折角今二人でいられるのに気の利いた話の一つも喋れやしないでいる。

こんなんじゃ、さんに呆れられるのも時間の問題だ。
そう思っていたからこそ、
「土井先生」
笑顔のさんが、急に覗き込んできて
「もしもですよ、またこんな風に雨の日で、先生がお暇だったら」



「こうやって二人でお茶飲みませんか?」


そう言ってくれたことが嬉しくて。


「……よろしいんですか?」
「勿論ですよぅ。ほら、わたしたちあまり二人でゆっくりお話したことないじゃないですか」
だから、土井先生さえよかったら、ね?
ふっくらとした笑顔に、つられて笑みが浮かんでくる。
「こちらこそ、是非」
「よかった! それじゃあ、約束ですよ。――指きりしましょ」









雨の日は嫌いだった。
だけど今日からはほんの少しだけ、雨の日が待ち遠しくなる。















土井先生がちょっと一人相撲気味ですな。